珈琲の香りのむこうの絵


 窓の外を、上着を脱いで汗を拭いながら、会社員がせわしなく通りすぎて行った。カレンダーの絵はもう秋だというのに、アスファルトに当たる陽射しは強く、湯気が立ち昇ってきそうにみえる。

 平日の昼下がり。この時間帯は、喫茶店はいつもがらんと空いていて、ゆったりとした時が流れている。

「あのう……、すみません」

 いつもの風景を、ガラス越しにぼんやりと眺めていた私は、その声ではっと顔をあげて、すぐにレジに駆け寄った。先ほどまで、窓側の席で本を読んでいた女性客から伝票を受け取ると、すっかり慣れてしまった手つきでレジを打ち、おつりを渡した。

「はい、二八〇円のお返しです。ありがとうございました」
 軽く頭を下げると、三十歳前後にみえる女性客は再び、あの、と遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど、あそこの絵……、あの絵の作者の名前を、知りたいのですが」
「え?」

 彼女は店の奥にかかっている絵を指差す。絵の好きなオーナーが経営している、どこか画廊喫茶風の趣のあるこの店内の壁には、ぐるりと絵の額縁が並んでいて、彼女の指はそのうちのひとつ、焦茶色の額縁に収まった風景画を指していた。

「あ、ごめんなさい。ここの絵はぜんぶ、オーナーの私物でして、今ちょっとオーナーがいないもので、作者の名前までは分からないんです」

「そうなんですか……」

「あの、オーナーが今度来たときに名前を聞いておきますので、よろしかったらまたこちらへいらしたときに、声をかけていただけますか?」
 寂しそうな表情をする女性に、思わず言うと、彼女はよろしくお願いします、と少し微笑んで店を出て行った。

 そのうしろ姿を見送ったあと、首をかしげながら、私は絵の前に立つ。

「また、この絵、なんだよねぇ……」

「また聞かれたの?」

 じっと絵を眺めていると、同じバイトの麻衣子さんがやってきて私と並んで同じように絵を眺めながら言った。

「そうなんですよ。この絵がこの店にかけられてから、もう五回目」

「ふうん……こういうことって、よくあるの?」

「いいえ。この絵みたいに、まだ飾られて一ヶ月も経ってないものが、あんな風に何度も聞かれることは、私の知る限り、はじめてなんです」

 私がこのお店でバイトをするようになってから、二年が過ぎようとしている。ビルをあちこちに持っている、この店のオーナーがどこからか手に入れてきては、適当に入れかえるこの店の絵は、つねに十五点ほどは飾られている。

 一貫していないオーナーの趣味のおかげで、この店に並ぶ絵は、センスも雰囲気もばらばらだ。そんな中で、確かにこの絵は目立つほうだとは思う。暗く深い色合いに、重厚感が感じられ、品がある。技術力も、才能も優れていることは、私でも分かる。

 でも……と思ってしまう。そういった絵は、何もこの絵だけではない。レジの横にある絵も、時計の下に飾られている絵も、私は同じくらい力のあるひとが描いたものに見える。なのに、この絵ばかりが突出して、何人もの人を惹き付けているのは、なぜだろう。ひょっとして、私の知らない、有名な画家の絵なのだろうか。

 一年ほど前に描いた、ポストカードサイズの私の小さな絵も、この店の壁には飾られている。一度も、誰かの気を惹いたことのなさそうな自分の絵と比べると、何人ものひとに関心を寄せられている、この風景画が、私にはうらやましく思えてならなかった。

「ねえ、画家の名前なんて、どこかに描いてあったりしないの?サインとか……」

 麻衣子さんが、後ろで丁寧に束ねられた長い髪をなでつけながら言った。相変わらず綺麗な髪をしているなぁ、と思いながら私は頷いて、

「それはもうとっくに調べましたけど……、不思議にもどこにもないみたいなんですよね」

 ふうん、と言って彼女は覗きこむように絵に一歩近づいた。私より七つ年上の彼女がここにバイトとして入ったのは、今から一ヶ月前だ。黒髪が美しい彼女が、実は主婦の顔も持っているとは、聞くまでは全然分からなかった。

「今夜さ、オーナーの奥さんに会うから、聞いておいてあげるよ」

 カウンターの向こうで、丁寧にコーヒーカップを洗いながら、坂口さんが言った。

「オーナーは相変わらず、忙しくてなかなか帰ってこないみたいだし、大体いつも行く画廊は決まってるみたいだから、奥さんは知っているかもしれないよ」
 微笑んで言う彼は、オーナーの古い友人で、このお店の実際の経営をまかされている。

 すぐに私は、よろしくお願いします、と言ってもう一度、焦茶色の額縁の絵に目をやった。麻衣子さんは先ほどから変わらず、熱心に絵を見つめている。

 全体的に暗い色調に、大きな白っぽい色の岩がくっきりと浮かぶ。岩の足元は川のようで、揺れる水面にその姿がぼんやりと映っている。丁寧に描かれた、今にも動き出しそうな、風景画。

「一体、どんなひとなのかなぁ……」

 この絵のことを知りたがるひとたちとは、きっとまったく違った気持ちで、つぶやいた。どんな人物で、他にはどんな絵を描くのだろう。

 大きな岩の絵の向こうに、ぼんやりと作者の姿を思い描いていると、それは学校を出てその後二年間、だらだらとアルバイト暮らしをしている自分とは、およそかけ離れた世界のように思えた。

 私は一体いつから絵を描いてないんだろう。桜が満開の頃からだったろうか。夢を追いかけていた気持ちが、まわりに置いて行かれたような気持ちに変わった頃から、ぼんやりとただ毎日を過ごして、いつのまにか半年も経ってしまった。

「あの、私そろそろ……」

「あ、もうあがる時間だね。お疲れさま」

 麻衣子さんはエプロンを取ると、手早く髪をほどいて、身支度を整えた。さらりとした髪の毛が背中までとどく。それからいつも通り、一番端の窓側の席に座った。

 麻衣子さんは仕事が終わると、ここでコーヒーを一杯飲んで帰ることにしているらしい。

 傾きかけた日を浴びて、ゆったりと椅子に腰掛ける彼女はとても綺麗で、大人に見えた。その手元に淹れたてのコーヒーが注がれたカップを置くと、ふわりとコーヒーのほろ苦い香りが漂う。麻衣子さんはミルクも砂糖も入れない。私はどちらも入れなければ、苦くて飲めないコーヒー。

「今日も、旦那さまと待ち合わせしてるんですか?」

「まさか。そんな毎日、外食ばかりしていたら大変じゃない。今日はね、家でちゃんと夕ご飯を作って、そのあとビデオでも見ようと思ってるの」

 美味しそうにコーヒーを啜って、麻衣子さんは微笑んだ。私はその笑顔の隣に、見たことのない麻衣子さんのご主人の姿を浮かべる。結婚して三年目だという、麻衣子さんの話から私の想像で出来上がったご主人は、とてもあたたかくて優しくて、素敵な人に思えた。優しい旦那様と、美しい奥様。まだまだ結婚なんて遠い世界に思えていた私にとって、それは雑誌で見るかのように、柔らかく明るく、幸せがあふれていた。

「いいなぁ。私、麻衣子さんの話を聞くようになってから、すごく結婚したくなっちゃったんですよ」
 相手がいないけど、と笑いながら私が言うと、

「結婚って、いいわよ」
 とささやくように言って、微笑んだ。その笑顔が、コーヒーの湯気の向こうでぼんやりと揺れた。


 翌日は、お昼過ぎにお店に行った。ランチタイムのにぎわいをうっすら残した店内にひとはまばらで、今日も窓の外からは、秋とは思えないほどあたたかい光が射し込んでいる。

「坂口さん、あの絵のこと、何か分かりましたか?」

 挨拶もそこそこに、待ちきれない気持ちで聞くと、サイフォンにゆっくりとお湯を注ぎ終えた坂口さんは、こちらを見て頷いた。

「奥さんが、心当たりがあるから、聞いておいてくれるってさ」

「えっ、本当に?」
 思わず勢い良く答えると、お盆を空のケーキ皿とカップでいっぱいにした麻衣子さんがやって来て、

「なあに、梨穂ちゃん。随分興味あるみたいね」
 とくすくす笑って言う。私はそりゃあもう、と力強く頷く。

「だって、作者もどんな人か、気になるじゃないですか。もし素敵な男性だったらいいなぁ、なんて思っちゃったりして」
 あはは、と照れ笑いすると、その私の言葉に麻衣子さんは、ふと手を止めて、私の顔をじっと眺めた。

「ねえ、梨穂ちゃん、賭けない?」

 しばらく何も言わずに私を見つめたあと、ふいに言った。

「賭け……、ですか?」

「そう。あの絵の作者が、男か女か。賭けましょうよ」

 なんだかいつもの雰囲気とは違う麻衣子さんに、私が曖昧に頷くと、彼女はにっこりと笑顔を見せた。

「勝ったひとは、坂口さんの特製コーヒーね」

 すっかりいつもの調子に戻って言うと、続けて、
「それじゃあ、私は『女』に賭けるわ」
 妙にきっぱりとした調子で言う。私は仕方なく、それじゃあ私は男性で、と言った。

「楽しみねえ、一体どっちかしら」

 歌うようにそう言って、彼女はかちゃかちゃとお皿を洗い始める。


 平日の四時頃を過ぎると、ぱたりと客足が途絶える。またほんの一時間もすれば、学生や、仕事帰りの会社員でにぎわうのだが、この時間は、斜めに傾いた太陽の光が窓から差しこんで、ときには空中を舞うホコリの動きさえ見えるほど、ゆっくりと時間が流れている気がする。

 私が買い出しから帰って来ると、お店には麻衣子さんがひとりでいて、ぽつんと例の絵の前に佇んでいた。

「ただいま、戻りました」

 ドアを開けても気付かないのか、こちらに背を向けたまま立ちつくす後姿に向かって言うと、はっとしたように長い髪をなびかせて、麻衣子さんは振り返った。

「ああ、梨穂ちゃん、お帰りなさい」

「あれ?坂口さんは?」

「坂口さんは、業者の方が来て、休憩室のほうに……」

 ふうん、と言って私は買ってきた荷物を整理する。麻衣子さんはまた、ぼんやりとした表情になって、そばの椅子に腰掛けた。

 秋の暮れかけた日が彼女の顔を半分照らす。陰影がくっきり表れた彼女の頬や鼻筋はとてもバランスが良く、唇はいつもより鮮やかな色で塗られている気がした。

「私ね、なんだか分かる気がするのよね」

 突然麻衣子さんが言ったので、心臓がどきん、と打つ。私は何か悪いことをしたみたいな気持ちで慌てて、なんのことですか、と言った。

「この絵のことを聞きたくなる気持ちよ。この絵をじっと見てるとね、心の中に抱えてることが、あの岩の向こうや水のなかから浮かんでくる気がして、なんだかどきどきしてくるみたいな、……ちょっと恐いような、そういう気持ちになるの」

「へえ……そう、ですか」

 麻衣子さんにつられるように、私も絵へと視線を向ける。どきどきしてくるみたな、恐いような気持ち。この絵のことを聞きたがる、幾人かのひとたちも、そんな麻衣子さんと同じようなことを感じているのだろうか。

 私はなんだか、自分だけ取り残されたような気持ちになって、その白っぽい大きな岩をじっと見つめた。

「あ、でもね私、梨穂ちゃんの絵も好きよ。明るくて、素直で……。他の絵も飾ればいいのに」

「あはは。飾りたくても、飾るものがないんです」
 ちっとも描いてないから、と笑いながら言うと、胸のどこかがきしむようだった。

「お、梨穂ちゃん、お帰り。さっき、奥さんが来たんだけど、メモ見た?」
 奥の休憩室から坂口さんが戻って来て言ったので、私は驚いて立ち上がる。

「え、知りません。メモって、どこですか?」

「あれ?その辺にないかなぁ。僕は、奥に行っちゃったから、聞いてないんだけど」

 カウンターのあたりを指して言う。きょろきょろと私は視線をさまよわせたけれど、それらしきメモはどこにもない。

「麻衣子さん、知らないの?」

「私は奥様が来られたとき、会計のお客様がいらしたので……」
 細長い指を頬に当てて、首をかしげて麻衣子さんは言う。私たちは手分けして、カウンターの下や、テーブルの下まで、お店中探したけれど、結局メモは見つからなかった。

「おかしいなぁ、確かに置いて行ったと思ったんだけど」
 まあまた聞けばいいよ、と坂口さんはのんびりと言う。私はがっくりしてしまった。

「麻衣子さん、もう時間じゃないか?あがっていいよ」
 坂口さんが言ったとき、空白の店内の空気を破って、お客さんが入ってきた。

 いらっしゃいませ、と声をかけると、私は急いでお水とおしぼりを運ぶ。

「それじゃ、またね」

 彼女は長い髪をさらりと手ですくい、ちらりと微笑むと足早にお店を出て行った。

 ガラス越しに、お店の前を行き過ぎる彼女の姿を見送ったあと、ふと、気付いた。

「あれ?今日は、麻衣子さん、コーヒー飲まないのでしょうか?」

「そういえばそうだね。いつもあそこの席でゆっくりしていくのにね」

 坂口さんは別段気にする風でもなく言ったけれど、麻衣子さんがこのお店で働くようになってから、すぐに帰ったことなんて、一度もなかった。

『こうやって、ここでコーヒーを飲むのが、一日で一番贅沢な時間のような気がするの』

 そう言いながらも麻衣子さんは、いつも何か考え事をしているような顔で、お店で一番苦味の強いコーヒーを飲んでいたのに。

 珍しいな、と思いながらも、私は再び動き出したお店の時間の流れへと溶け込んでいった。頭の隅に、メモのことを気にかけながら。

 けれどもその次の日も、次の日も、メモは見つからなかった。

 そして三日後、麻衣子さんはぱったりと突然、お店に来なくなってしまった。



 ようやく秋らしくなってきた冷たい風が、ぱりぱりに乾いた落ち葉を吹き上げて通りすぎて行った。あとで、店の前の落ち葉を掃除しなくちゃ、と思いながらドアを開けると、コーヒーのこうばしい香りが鼻に届く。坂口さんが、コーヒー豆を挽いているのだ。彼は、私に気付くと顔を上げておはよう、と言った。

「梨穂ちゃん、新しいバイトの人が決まったから、明日からはまた前の時間でいいよ」

「そうですか」
 言って、私はレジ横に貼られていた『バイト募集』のチラシを取る。

 麻衣子さんが辞めてから、今日で一ヶ月が経つ。チラシを丸めて捨てながら、一ヶ月前のことを思い出した。突然麻衣子さんが無断欠勤したあの日、彼女の置手紙を持って現れたご主人は、私の想像とははるかに違う人物だった。

 乱れた髪に、怒りの形相。とても、彼女の話から思い浮かべていたご主人とは思えないそのひとは、置手紙をぐしゃぐしゃに丸めて投げつけると、ドアを荒々しく閉めて、早々に出て行ってしまった。

 あとから坂口さんやお店の常連さんから、あのまま麻衣子さんは失踪したらしい、とか、男と逃げたらしい、とか、本当は旦那とうまくいってなかったなんてことを、こそこそと聞いたけれど、指のささくれが触れるたびに痛むように、聞く毎に私の胸もぴりぴりと痛んだ。

 一ヶ月前、ここでの仕事を終え、一ヶ月分の給料をもらったまま、彼女は消息を絶ったという。

 床掃除を終えて、テーブルを丁寧に拭いて行く。窓側のテーブルまで来たとき、ここに座っていた彼女の姿を、今も思い浮かべてしまう。

 いかにも幸せそうに、私に結婚生活の話をしてくれた。結婚っていいわよ、と微笑んだ湯気の向こうの彼女の笑顔を思い出すたび、なんだか裏切られたような気持ちで、やはり私の胸はぴりぴり痛む。

「あ、そういえば、麻衣子さんから手紙が来ていたんだよ」
 坂口さんはコーヒー豆を挽く手を休めてそう言うと、カウンターから一通の封書を差し出した。

 そこには、はじめて見る彼女の、丁寧で、几帳面な文字が並んでいて、突然店を辞めたことのお詫びが書かれてあり、最後に私へのメッセージが添えられていた。

『梨穂ちゃんへ
 嘘ばかり言っていて、ごめんなさい。メモを隠してしまっていたことも、謝ります。
 梨穂ちゃんと賭けをしたのを覚えてる?あのとき、私は心の中でもうひとつの賭けをしていました。そのおかげで、今は、この道を進んで行こうと思っています。
 賭けに負けちゃったのに、坂口さんのコーヒー、ごちそうできなくて、ごめんね。
 色々と、ありがとう。梨穂ちゃんも絵、頑張ってね。       麻衣子』

 封筒には、もう一枚、枯草色をした紙が入っていて、そこには『白い岩』というタイトルと、私の知らない男性の名前と電話番号が書かれてあった。

「麻衣子さん、もしかしたら梨穂ちゃんが、うらやましかったのかもしれないね」

 坂口さんが、私の手もとの枯草色の紙をじっと見つめて、ぽつりと言った。

「うらやましい?」

 その私の質問には何も答えず、坂口さんは小さく微笑んだ。

「はい、これ。麻衣子さんの代わりに、僕から。麻衣子さんがいつも飲んでいたコーヒーだよ」

 こうばしい香りを立ち昇らせて、坂口さんが淹れたてのコーヒーをカウンターに置いた。私はカップを手に取ると、琥珀色の熱い液体をひとくち、飲んだ。お店で一番苦いコーヒーは、私の口を思わずゆがませる。

 麻衣子さんは、このコーヒーを飲みながらずっと悩んでいたのかな、と思った。あの窓側の席で、私には分からない事情で。

 賭けをしたとき、心の中でしていたもうひとつの賭けとはなんだったんだろう。もし、あの絵の作者が女性だったら……、女性だったら、麻衣子さんは今もまだ、ここにいたのかもしれない。

 枯草色の紙をじっと見つめる。ここに書かれた名前を見たときの、麻衣子さんの気持ちを思うと、あの日以来、仕事を終えたあとコーヒーを飲まなくなったその理由も、なんだか分かるような気がした。

 窓から朝陽が入り込んで、窓側のテーブルが明るく照らされた。白い壁にも、店内に飾られた絵にも光が当たって眩く輝く。そのとき、偶然にも一番朝陽を反射して、あの風景画がひときわ明るく、私の目を惹きつけた。

『この絵をじっと見てるとね、心の中に抱えてることが、あの岩の向こうや水のなかから浮かんでくる気がして、なんだかどきどきしてくるみたいな、……ちょっと恐いような、そういう気持ちになるの』

 麻衣子さんの言葉を思い出す。暗い色調の中で、そこだけ明るく神秘的に輝く白い岩。でも、その向こうに広がる暗がりが、余計に際立つ、美しい白い岩。

 そのときやっと私は、少しだけ分かった気がした。麻衣子さんの言葉や、何人ものひとの、この絵のことをもっと知りたいと思う気持ちも。

 麻衣子さんの好きだった、濃いコーヒーをもうひとくち、啜る。ひとくちづつ、ゆっくりと口に含むごとに、苦味は不思議と不快なものではなくなって、熱い液体はまっすぐにのどを落ちていった。

 コーヒーを飲み終えたとき、私はなんとなく自分が少しだけ大人になれたような、そんな心地良い気分に満たされるのを感じた。

 手もとの枯草色のメモを見て、今日にも、連絡をしてみようと思った。みんなの気持ちを伝えたい。それから、もっと他の絵を見せてもらいたい。

 ふと、反対側の、カウンターの隅にひっそりと掛けられた自分の絵を見る。

「私も、新しい絵にしなくちゃね」

 小さくつぶやいたとき、最初のお客さんがお店に入ってきた。

 今日も流れはじめた新しい時間のなかで、私は新たな絵の構図を、あれこれと思い描いた。




 


 

おわり

 


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今回、クプカの尊敬する大先輩・ひかり.Sさんと共作させていただいて、
とってもとっても、たくさんのことを学びました。素晴らしい絵を、ありがとうございました。

大人になることは、ほろにがいことなのだなぁ、と
最近、やっと気付いたところを書いてみました。

「珈琲の香りのむこうの絵」 story by みえ

 

この絵を見る前から、すてきな小説を書いてくれたみえさんに
感謝します。読む人のイメージが壊れないことを願います。

「白い岩」  painted by ひかり.S (油彩60号)


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