いつか、会いましょう。

作・み え



『・・・いろいろと、ありがとうございました。本当に。
 あなたからは、たくさんの元気をもらったような気がします。メールをひとつひとつ読むたびに、本当に元気が出てきました。
 いつか、お会いしたいですね。では、また』

 キキキキキ、と鋭い音が鳴り響いて、電車が急にスピードを落とし、がくんと止まった。
 急なブレーキに、車内のあちこちから声が上がった。座っていた私でさえ、体ががくりと前のめりになって、手に持っていた紙の束がばさばさと落ちる。

「・・・・・・非常停止ランプがついたため、急停止しました。しばらくお待ちください・・・・・・」

 車内アナウンスが流れる。足元に散らばった紙の束を拾い集めて、私は椅子に座りなおした。窓の外は穏やかな春の日差しをきらきらと反射させて、新緑色の葉を揺らす木々が枝を伸ばしている。遠く、青空に縁取られて、淡い色に染まった春の山が広がっている。

 手にした紙の束をぱらぱらとめくりながら、私はページをそろえてゆく。古いものから順番に。そして、これが最後のメールだ。ちょうど、さっき読んでいた一枚。日付はもう一ヶ月も前になる。

「は。彼に会いに行くって?・・・・・・本気?」

 一ヶ月近く前にメールが途切れたまま、返事が来ないメール友達に会いに行くことを、親友の香織に打ち明けると、呆れた表情で聞き返された。私が頷くと、彼女はさらに呆れ顔を作って、ばかねぇ、と言った。

「だって、たかが・・・・・・メル友でしょ?大体、亜衣には坂本さんっていう、立派な彼氏がいるじゃない。どうすんのよ。坂本さんは」

「・・・・・・まだ、わからない。ただ、今はもう坂本さんよりも、メールの彼に気持ちが動いているのは確かなの」

 ふたりでよく会うお気に入りのイタリアン料理店で、香織はピザを手にとってちらりとこちらを見た。

「ふうん。そうなんだ。いつのまにか、そうなっちゃったんだ。でもメールの彼・・・・・・アキラくんだっけ?そのアキラくんの本名、知ってるの?」

 ぱくりとおいしそうにピザを頬張る。私はサクサクと、手元のお皿に残ったサラダをつつきながら、小さく首を振った。

「本名は知らないけど、でも住所は教えてもらってるし。直接行けばなんとかなるかなと思って。現地で、アキラって名前を探してみようかと思ってるの。そりゃ・・・・・・まぁ、苗字を知らないのはちょっと大変かもしれないけど」

「大変よぉ、きっと。でも本当にいいわけ?サカモトくんみたいな、将来有望の素敵な彼よりもさ、そんな得体のしれない人を選んじゃって。それに結構、年下なんでしょ?」

「うん。・・・・・・6歳、下」
「6歳!」

 香織は信じられないという顔で、食べかけのピザを持った手を振った。

「6歳っていったら、今まだ22歳ってことじゃないの。そんな若い子相手で・・・・・・。あんた、からかわれてんじゃないの?」

 ぐさっと来る。実は私もアキラくんに年齢をごまかして伝えてるということを、香織にはとても言えないと思った。28歳なのに、25歳と言ってしまっている・・・・・・。

「まあでも、行って気がすむなら、そうすればいいわよ。顔見てさ、がっかりするかもしれないし。坂本さんとのことはそのあとで考えればいいじゃない」

 香織は楽観的な調子で言うと、飲もう飲もう、とワインをグラスに自分で注いでぐびぐびと飲んだ。

 アキラくんとは、半年前の冬、間違いメールが元で知り合った。

 坂本さんに送ったはずのメールが、なぜかアキラくんに届いてしまったのだ。アドレスが微妙に間違っていたみたいだった。

『はじめまして。あなたのメールが間違って届いてしまっているようなので、それをお知らせするため、お返事しました。実は内容も、拝見してしまったのですが、H&Sがお好きなんですね。僕も大ファンです。大好きなH&Sのお話だったので、思わず読んでしまって、申し訳ありませんでした。それでは失礼いたします』

 そのとき間違って送ったメールは、坂本さんと行ったH&Sというミュージシャンのコンサートの話だった。同じくH&S好きという彼の親切で丁寧なメールに、私はなんとなく親近感を覚えて『間違っていたと教えてくださって、ありがとうございます』という返事を出した。

 それがきっかけで、メール交換がはじまって、以来ほとんど毎日のように言葉のやりとりを続けてきた。

 6歳年下の大学生で、就職活動中だという彼の明るい素直な文章は、とても新鮮で好感が持てた。

 それは現在つきあって2年目を迎える、ひとつ年上の坂本さんとの会話よりもずっと楽しくて、私はいつの間にか坂本さんと一緒に過ごす時間でも、アキラくんのことを考えることが多くなっていた。

「・・・・・・えー、申し訳ありませんでした。安全が確認されましたので、間もなく運転を再開いたします」

 ふいに車内アナウンスが響いて、はっとする。やがて電車は鈍い音を震わせながら、ゆっくりと動き出した。

 ページを繰って、唯一、住所の書かれたアキラくんからのメールを探す。半年の間に、やりとりしたメールの数は、印刷してみてはじめて驚くほどの量だったと分かった。

 H&Sの話からはじまって、アキラくんの就職活動の悩みや、私の仕事の愚痴。ともだちとの思い出話や、日常のたわいもない会話。無機質な文字でも、それを見つめているだけで、たくさんの感情がわいてくる。恋愛めいた言葉なんてどこにもないけれど、この紙の厚みが私に小さな自信をくれた。

『・・・・・・AIKOさんのお話は、ときどき、不思議なことが多いですね。H&Sの歌でも、僕には知らない歌もあるし。僕の住むこの町は、かなり田舎なので、H&SのCDも売ってないものがあるのでしょうか。全部集めたと思ってたんですが、機会を見て探してみますね!
ところで、僕の住むこの町、H町はすごく田舎ですが、緑が多くて海もあって、気持ちの良い場所です。そうだ。近くに来た際は、ぜひ一度、たずねてみてください。下に、僕の住所を書いておきます。僕の住むアパートの向かい側にはやきとり屋があって、僕はそこでバイトしています。とてもおいしいやきとり屋さんなんですよ。
いつか、お会いしたいですね  アキラ』

 住所の書いてあるメールを見つけ出して、私はそれを何度も読んだ。

 香織の言うとおり、からかわれてるのかもしれない。いい年して、6歳も年下の子に惹かれるなんて、本当にどうかしてる。しかも、メール友達だ。顔も見たことがない。本名さえ知らない。パソコンの画面に表示される文字だけの会話で、一体、どうしてこんな気持ちになるんだろう。

 走り出したと思った電車は、やがて小さな駅に到着した。

「いやぁねぇ、さっきの、ほら。電車が止まってたでしょう?」

「ああ。急ブレーキで・・・・・・」

「線路に落とし物して、降りてたひとがいたんですって」

「まあちょっと、それって危ないわよねぇ」

 車内に響く大きな声で話し合いながら、数人の女性が乗り込んできて、私のすぐ隣に座ると、にぎやかに話しつづけている。

 そういえば、アキラくんもそんなようなことをしたって、メールに書いてあったっけ・・・・・・。ぱらぱらと、紙をめくって、目的のページを探す。

『・・・・・・今日は大変な目にあいました。僕は帽子が好きでよくかぶってるのですが、電車を待っていたときに、急な突風にあおられて、帽子が線路に落ちてしまったんです。急いで拾おうと思って線路に降りたら、駅員さんに怒られてしまって・・・・・・』

 読みながら顔がついついほころんできてしまう。毎日の他愛のない話、以前起こった出来事、話すことはいくらでもあって、アキラくんとのメール交換はとてもとても楽しかった。

 坂本さんと出会ったころも、そういえばこんな気持ちだったなぁ、と思い出す。お互い相手のことが知りたくて、自分のことも知らせたくて、話すことは限りなくあるように思えた。

「一番楽しかったのは、大学時代だなぁ。本当に毎日楽しかったよ」

 お酒をたくさん飲むと、赤いほてりを目元に浮かべて、坂本さんは必ずそう言って微笑んだ。彼のその笑みはとても魅力的だったけれど、いつからか、私は見るたびに気持ちがすうっと冷たくなるのを感じていた。

「じゃあ、大学時代のことを話してよ」
「うん・・・・・・。楽しかったよ。ほら、友達もいてさ。亜衣も知ってるだろ?川口とか」

 そうやって、適当にはぐらかされてしまう。坂本さんは、一番楽しかった大学時代の話を、あまり私にしたがらなかった。

「じゃあ今は?」私はいつもその言葉をお酒と一緒に飲み込んで、冷えた頭をもう一度酔わせようと努力していた。

「H駅に到着します。お乗換えのひとは・・・・・・」

 車内アナウンスに顔をあげると、電車がホームにすべりこむところだった。やっと、アキラくんの住む町に着いた。浮き立つ気持ちと緊張とが入り混じって、私の心臓が耳元で響く。

 私は紙の束をバッグに詰め込むと、椅子から立ち上がってホームに降り立った。



 さっきから、同じところを何度も通り過ぎて戻ってきては、紙に書かれた住所と、電柱に貼ってある住所表記を見返していた。かなり近いところまで来ているはずなのに、アキラくんの住むアパートらしき姿は、どこにもない。

「おかしいなぁ・・・・・・。やっぱり、もう一本、あっちの通りなのかな?でも、あの通りは三丁目って書いてあったのに」

 小さな白いビルや、灰色のビルが立ち並ぶ細い道で、車の姿はない替わりに大学生が通り過ぎてゆく。アキラくんが通っていると言っていた大学が、この近くにあるのだろう。
 楽しそうな笑顔で、仲間とふざけ合いながら駅への道を歩いてゆく男子学生を見ていると、彼こそがアキラくんかもしれないと、自然に目線が追ってしまう。

「さっきから、どうしたの?どこか、探してるの?」

 目の前の、小さな白いビルの一階に入っている酒屋さんから、人の良さそうなおじさんが出てきて、にこにこと笑顔で声をかけてくれた。先ほどから店の前をうろうろしていた私が目に入ったのだろうか。素直に、私はアキラくんの住所を見せた。

「ここって、どのあたりでしょうか?」
「ああ、これって、そこだよ。ほら、そこの向かいの、灰色のアパート」
「え?」

 何でもなさそうにおじさんは言う。指されたのは、てっきりビルだと思っていた灰色の建物だ。これ、アパートだったんだ・・・・・・。私は胸が大きく脈打つのを感じた。
 おじさんへの挨拶もしどろもどろになって、私はふらふらとアパートへ近づく。ここが、アキラくんがいるアパート。

 いきなり会いにくるなんて、やっぱり非常識じゃないだろうか。急に、メールが来なくなったことが、不安の塊になって心を沈めかけてきた。
 後悔と、緊張とで頭の中はめまぐるしく動くのに、足は一歩一歩くすんだ灰色のアパートの入り口へと向かってゆく。

 住所から察して、アキラくんは103号室のはずだった。私は入り口にあるポストの表札を、高鳴る胸を抑えて覗き込んだ。101:小柳裕子、102:近江めぐみ・・・・・・103は?

 そこで、目に飛び込んできたのは、「103 酒井真由美」だった。

 酒井真由美?全然、ちがうじゃない。

 何度見ても、間違いない。不安な気持ちで念のため、すべての部屋の表札をチェックしたけれど、「アキラ」なんて名前はどこにもなかった。それどころか、並んでいる名前はみんな女性ばかりだ。どういうこと?間違い?

 そういえば、アキラくんがバイトしていると言っていたやきとり屋はどこだろう。向かい側にあると言っていたやきとり屋。その店の姿もどこにもない。

「どうだった?あってたでしょ?」

 振り返ると、道を挟んで向かい側の酒屋の前で、おじさんが心配そうな顔で立っている。私はすぐにおじさんの元へ走り戻ると、

「あの、やっぱり違うみたいなんですけど。この近くで、やきとり屋さんってあります?」

 と、意気込むように聞いた。

「やきとり屋?」

 腕を組んで、おじさんはうーん、と言うと、駅前にあるぐらいかなぁ、と言う。

「駅前・・・・・・。ほかにはないんですか?このへんで」

「この近くにはないよ。・・・・・・あ、でもここは昔、やきとり屋だったけど。もしかしてここのこと?」

「え?」

 ここがやきとり屋だった?

「ここね、5年くらい前まではやきとり屋だったんだよ。やきとり屋がつぶれて、今はこの通り、酒屋になってるけどね」

 手を広げて得意そうに言う。私は手に持っていた紙を落としそうになってしまった。

「5年前・・・・・・」

「そう。そこのアパートも、今は女性専用になってるけど、その前・・・・・・3年くらい前までかなぁ?それまでは、普通の学生さん用のアパートだったんだよ」

 どういうことなんだろう?アキラくんが住んでるはずのアパートが女性専用で、バイトしていると言っていたやきとり屋が、5年前に閉店?

 わけのわからないまま、心配顔のおじさんにお礼を言うと、私は駅への道を戻っていった。



 帰りの切符を手にホームの時刻表を調べると、次の電車の出発時間まではまだ20分以上もあった。私は木のベンチに座り、ぼんやりとホームからの風景を眺めた。
 都心から離れた郊外のこの町は、緑が豊かで駅前も季節感あふれる色彩でいっぱいだ。遠くどこまでも続く青空をまるく切り取るように、山の稜線がなだらかに続いている。

 バッグから紙の束を取り出して、私はぱらぱらとめくり何度も何度も読んだメールを、再び読み返した。

 このメールの主は、一体誰だったんだろう。アキラくんは本当に存在するひとだったのかな・・・・・・。

 文字だけじゃ、まるでパソコンと会話しているみたいだ。この文字の向こう側に、確かにいたはずの彼の姿がまったく今は感じられなくて、私はなんだか心の中がぽっかりとした何もない空間で埋め尽くされてゆくような気がしていた。

 一ヶ月前、それまでほとんど毎日のようにやりとりしていたメールがぱたりと来なくなったとき、最初はパソコンの不調とか、プライベートで何か忙しいことが起こったとか、そういう原因を想像して、あまり気持ちは焦らなかった。

 一週間経って二週間経って、メールボックスを開くたびに味わう失望感が日を追うごとに激しくなるにつれ、私のアキラくんへの気持ちも急激にふくれあがったのかもしれない。

 昨日、一ヶ月ぶりにアキラくん宛てのメールを書いたけれど、それは彼のもとへ届いたのだろうか。

 ふいに、軽快な音楽がすぐそばで響いた。バッグから慌てて携帯電話を取り出すと、発信者は坂本さんだった。一瞬の迷い。でも、私は電話を取った。

「もしもし?」

「あ、亜衣?お前、今どこにいるんだよ。会社も休んでるみたいだし。知らなかったからびっくりしたよ。なんかあったのか?」

 聞き覚えのある坂本さんの声は、空いた心にじんわり染み込んでくるみたいだ。私は素直に、自分の気持ちを話そうと思った。アキラくんのことも、ここへ今、来ているわけも。

「H町って知ってる?そこにいるの。ちょっと、会いたいひとがいて・・・・・・」

「H町?H町にいるのか?なんでそんなところにいるんだよ。昨日さ、変なメールも送られてくるし。『いつか会いましょう』って、なんだよ、このメール。しかも、なんで『アキラ』なんだよ」

「え?」

 どきっとした。昨夜送った、一ヶ月ぶりのアキラくんへのメール。『いつか会いましょう』って件名で、アキラくんに惹かれていることを、今の自分の気持ちを素直に書き綴ったメールだ。坂本さんが言ってるのは、そのメールのこと?

「え、そのメールって・・・・・・なんで、坂本さんが知ってるの?」

「それはこっちが聞きたいよ。今更こんな、告白する内容みたいなメール・・・・・・。おまえ、どうしちゃったんだよ」

「だって、でもそれは・・・・・・」

「しかも『アキラ』って。これ、なんで、俺の昔のあだ名なんかで書いてくるんだよ。川口か誰かに聞いたのか?」
「え?」

 あだ名?

 私は坂本さんが何を言っているのか分からなくて、ぽかんとしてしまう。あだ名って・・・・・・どういうこと?

「おまけにH町って。やっぱり、俺の大学時代の話かなんか、川口に聞いたんだろ」

「ちょ、ちょっと待ってよ。H町って、坂本さん知ってるの?それにあだ名ってどういうこと?だって坂本さんの名前は『トオル』でしょ?」

「だから、名前は『亮』って書いて『トオル』だけど、それって『アキラ』とも読めるんだよ。昔さ、大学時代に間違ってそう呼ばれて以来、大学時代のあだ名はずっと『アキラ』だったんだよ、俺。それにH町は、大学時代に住んでたところだよ。大学が近くにあって・・・・・・って、言ってなかったけ?」

 一体何が起きているのか。坂本さんの大学時代のあだ名が『アキラ』?H町に住んでいた?それって・・・・・・何を表してるんだろう。
 頭をフル回転させながら、私は確かめるように聞いた。

「ねぇ、坂本さんってもしかして、H町の灰色のアパートに住んでたの?向かい側がやきとり屋さんで」

「うん、そうそう。そこのやきとり屋でバイトしてたんだよ。懐かしいなぁ。すごくうまいやきとり屋だったんだよなぁ。あれ?これは前に話したっけ?」

「ううん、聞いてない。だって坂本さん、大学時代の話、全然してくれなかったじゃない」

 いつも、大学時代が一番良かったっていうくせに・・・・・・。坂本さんの赤くほてった遠くを見るような目つきを思い出しながら、私は小さくつぶやいた。坂本さんはそうだっけ?と繰り返し言ったあと、

「ああ、でもあんまり、亜衣に大学時代の話しても、つまらないかなと思ってたから、話してなかったかもしれないなぁ。亜衣だって自分がいない時代の話聞いても、つまらないだろ?」

「そんなことないよ。だって前は、色々話してくれたじゃない。付き合いだしたばっかりの頃は」

「だからその頃さ、大学時代の話したら、亜衣がつまらなそうな顔をしてたからさ、それ以来やめたんだよ俺」

 つまらなそうな顔を、してた?
 思い返してみると、確かに私の知らない坂本さんの時代を、くやしいと思うことはあった気がする。そのとき私はそんな表情をしていたのだろうか。
 私が黙りこむと坂本さんはまあいいよ、と続けて言う。

「今が一番いいんだからさ。今の話してればいいじゃないか。大学時代の話聞きたければ、また話すよ。・・・・・・あ、まずい。そろそろ切らなきゃ。今日なんでH町に行ってたのか、今夜会って話してくれよな」

「あ、待って、坂本さん」
「なに?」

「大学時代、メール交換したことない?6歳・・・・・・じゃなくて、3歳上の女性のひとと」

「え?そんなことも知ってるの?川口のやつ、べらべらしゃべりやがって。・・・・・・昔の話だよ。まぁそれも、今夜にでも」

 照れたように最後のほうは笑って、それじゃあと、電話は慌しく切れた。

 静寂の戻ったホームに、さわさわと風が通り抜けてゆく。私はたった今の坂本さんとの電話の内容を思い返しながら、じっと目の前で揺れる新緑色の葉を見ていた。


 灰色のアパートは、3年前から女性専用になっていた。やきとり屋は5年前に閉店していた。それから、坂本さんも『アキラ』と呼ばれていた。

 なんだか分からないことばかりだけれど、坂本さんの「今が一番いいんだから」という声が耳に心地よい余韻を残してくれていて、それは、メール交換をしている最中に違和感を覚えたいくつかの個所も、まるでパズルがぱたぱたとあるべき場所へはまってゆくように、すうっと私の頭の中を明瞭にしてくれた気がした。

「間もなく電車が参ります。白線の内側に・・・・・・」

 車内アナウンスが響いて、私はベンチから立ち上がった。

 時間の壁は案外薄いのかもしれない。でも、私はこれからの坂本さんに会いにいこう。

 手元の切符を確認すると、突風を巻き起こしてすべりこんできた電車に、私はさっと乗り込んだ。


おわり

 





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以前、長編の小説を書いたときに、

おなじような題材を使って、

書いてみたいと思っていたお話です。

システム系の仕事をしていても、

ナサケナイことにいまいちネットワークのしくみが理解できてません。

携帯電話の電波のしくみもよくわかってません。

しくみがよくわからないことが今の世の中には多いので、

こういうこともあってもおかしくないかも、とちょっと思ったりします。

Story & comment by みえ





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