連載小説「旅色の空」第4回

記念日という名の喫茶店

作・み え




  

 ふと目を覚ますと、どこからか水の流れる音が聞こえた。

 ぼんやりと視界がかすむ。自分の体温で程良く暖まった居心地の良い布団にくるまったまま、そっと目を閉じる。

 やがてもう一度目を開いたとき、今度は先ほどよりはっきりとした木目模様の天井が現れた。体を少しよじって、窓のほうを見ると、思っていたほど明るくない。枕元の腕時計は午前七時を指している。

 もう一眠りしようかしら、そう思い目を閉じかけた私の耳に、再び水の流れる音が届いた。時折ぱらぱらと窓に打ちつける音もする。雨……?私は起きあがり、障子を開けた。窓は曇って、雨の滴で濡れていた。

「雨なんて、久しぶり・・…」

 六月にこの旅を始めてからもう五ヶ月が経とうとしているけれど、運がいいのか、最初の梅雨時以外、あまり雨の日に遭遇したことはなかった。

 窓を開けて、さらに驚いた。どこまでも白い風景……。霧だ。いつもなら遠くに見えるはずの湖も見えない、濃い真っ白な霧がぼんやりと視界を覆っている。

 北へ北へと進んできて、小さな美しい湖と、この湖畔の宿に泊まって今日で五日目になる。安くて料理もおいしくて、私はすっかりここが気に入っていたのだが、周辺の観光もあらかた見終わってしまったし、今日あたりそろそろどこかへ動こうか、と思っていた矢先のこの雨で、早くもその決心が揺らぎ始めた。

 ため息が白く煙った。それを見て急に部屋に流れ込む冷気を感じ、窓を閉めると身支度をして食堂に降りていった。



 暖かいお味噌汁をすすりながら、今日の予定をぼんやりたててると、すっかり顔見知りになったこの宿の奥さんが、今日は雨で煙っているから、湖がいつもと違った風に見えますよ、と言う。

「ぼんやりとして、とてもいいですよ。遠くまで見渡せませんが、それがまた神秘的な感じがするんです。それに、こんな日だけ起こる、伝説があるんですよ」

「伝説?」

 海苔でくるんだご飯を頬張ったまま、私は箸を止めた。

「ここから湖の縁まで出て、そのまま右にずっと沿っていくと、前方に小さな林が見えてきます。その林の中に、喫茶店があるんですけど、気づかれました?」

「喫茶店……?ああ、あの木でできた、ログコテージ風の……。ちらっとだけ見ましたけど、あれ、喫茶店だったんですか」

 着いたばかりの日、散歩がてらに出た湖沿いで見かけた景色を思いだして言った。もう誰も住んでいない、古い物置かなにかだと思っていた。ログコテージとは言っても、かなり年期の入ったものなのだ。

「林の外からじゃ、あの喫茶店のドアの看板は見えないと思いますけど、ちゃんと林に入っていく細い道もあって、今でも喫茶店として経営してるんですよ。……それで、問題はその看板なんですよ」

 奥さんは声を少しひそめて言った。ほかの部屋のお客さん達が食堂に降りてきた。ちょっとそっちを気にしながら、顔を近づけて、

「その看板は、木に黒い墨か何かで書かれてるんですが、こういう霧の濃い日に看板を見ると、いつも字が違って見えるんです」

「?……え?それはどういう……」

 言ってる意味がよく分からなくて、私は奥さんの人の良さそうな顔を見つめた。

 奥さんが口を開きかけたとき、ご主人に名前を呼ばれ、ちょっと残念そうな表情をしたまま軽く会釈すると、厨房のほうへ向かってしまった。忙しいのかそのまま食堂には現れなかった。

 私はお箸で冷めかけてしまったご飯をすくうと、よし、とつぶやいてそれを口に運んだ。今日の予定は決まった。どうやら、ここを出発する日がまた一日延びたようだ。食堂の窓から見える、ぼんやりとにごった外の景色を眺めながら、私は朝食を勢いよくたいらげた。



 表の雨を気にしながら玄関でスニーカーを履いていると、奥さんがスリッパの音をぱたぱたと響かせて、廊下を急ぎ足で来た。

「もしかしたら、喫茶店、行かれます?」

「ええ。せっかくですから……。雨で、どこにも行けないですしね」

 私がそう言うと、奥さんは周りを気にするそぶりをしながら、エプロンのポケットから一通の封筒を出した。

「こんなこと、お客様に頼むべきじゃないのでしょうけど…。私、忙しくてちょっと出られないものですから。これ、その喫茶店の奥さんに渡していただけないでしょうか?」

 淡いブルーの封筒を受け取って、私はいいですよー、と頷いた。よろしくお願いしますと言って、奥さんはじっと私の手に渡った封筒を見つめた。その視線の奥で、何か深い感情が動いたような気がしたが、私がそれを確認する間もなく、すぐに目を伏せて、奥さんはもう一度深くお辞儀をすると、また廊下を戻っていった。その後姿とブルーの封筒を交互に見つめた後、私はそれをジャンパーのポケットにしまった。

 雨はいつの間にかやみ、時折ぽつりと額を打つ。何度か通った湖のほとりまで3分ほどの道のりを歩くと、白く煙った静かな水面がいつもより広がりをなくして現れた。

 霧が晴れていれば、美しい円を描いたような湖と、そこをぐるりと囲む白樺の木々が見る人の目を和ませるはずだ。だが、宿の奥さんの言うとおり、こういうぼんやりした輪郭を見せる湖も、幻想的で美しい。じっと佇んで見つめていると、霧の流れも見えてくるし、その下にゆらゆらと揺れる水面も、なんだか空中に急にぽかんと現れた、神秘的な異世界のように思えてくる。

 初めて見るそんな不思議な表情の景色を楽しみながら、私は湖を右に沿って歩いた。

 気温は朝から少しも上がってないようで、吐く息は相変わらず白い。この旅一番の寒さを感じて、私はポケットに手をつっこむと、身を縮めるようにして歩いた。右手が、封筒に当たる。何気なく私はそれをもう一度出して、眺めた。他人の手紙を読む趣味はないが、先ほどちらりと見た宛名が気になったのだ。

 封筒には丁寧に郵便番号と住所が書かれてあるのに、名前は『泣き虫さーこへ』と書かれてある。最初からポストに出す気はなかったのかな……、私はそれ以上詮索することをやめて、もう一度ポケットに戻した。

 五分ほど歩いた頃、背の高い樹が生い茂る林が現れた。ぼんやりとした薄白い世界にちらちらと見える木々の景色はまた幻想的で、私は感動してしばらくそれらを眺めた。林の中へ一歩入ると、人気は全くなくなって、しんとした世界に一人ぼっちになってしまった心細さを覚える。まるで霧の小さすぎる水滴ひとつひとつが周囲の音を吸収してしまっているかのように、辺りは森閑としていて、時折その中を鳥の声が駆け抜け、どきっとさせた。

 いつも字が変わって見える看板とは、いったいなんだろう。まだその看板の陰も見えない前方に目を凝らして、ぼんやりと考えた。もともと、その看板にはなんて書かれてあるのかな。まあ、喫茶店の名前なんだろうけど……。

 急に目の前が木でふさがれて驚いて立ち止まった。よく見ると、そこから左に行く道が出ている。霧がこんなに濃かったら、曲がり角さえも分からないじゃない。小さく肩をすくめて、私はそう思った。それから、喫茶店はもう開店しているのだろうかと心配になった。こんな白い霧の中を来る人もいるのだろうか。

 心に浮かんできた不安はしかし、すぐに解消された。曲がり角から10メートルほど進むと、にごった視界の先にぼうっと明かりが現れ、うっすらと茶色い建物が見え始めた。ほぼ同時に周辺から圧迫していた木の群れも、急にぽっかりと途切れ、湖の縁に建つ喫茶店の前に出た。

 眠っているように静かだった林の中とは違って、かすかに軽快な音楽も流れてきている。古いログコテージ風の平屋は、窓の下に花壇もあって、思っていたよりも洒落た雰囲気だった。年期の入った風合いのドアには『営業中』と札がかけられ、その横にかろうじて『アニバーサリー』と読みとれる、黒くにじんだ墨で書かれた看板が、かけられていた。

「いらっしゃいませー!」

 カランカランとびっくりするほど大きな音を立てて、ドアについていた鐘が鳴り、同時に明るい女性の声がこちらに投げかけられた。

 中は外見と変わらず、年季の入った丸木が張り巡らされていて、同じような材質の木でできたテーブルや椅子が並べられていた。その間を縫うようにして奥のカウンターから、中年にかかるかかからないか、という年齢ほどの女性が歩いてきた。

「おひとり様ですか?」

「え、ええ、はい。そうです」

 きれいな人だ、とこちらに向けられた笑顔を見て思う。女性はぐるりと店内を見渡すと、お好きなところに、と言ってカウンターへと再び向かった。

 店内に人影はまばらだった。それでも五、六人ほどいたことに意外な気がする。こんな時間でも、こんな場所でも、私のように来る人もいるんだ……。 

 真っ白であまり眺めが良いとはいえないが、一応湖側の窓際に私は座った。

「霧でなんにも見えないでしょう?道も狭いし、ここ、変な場所ですから」

 先ほどの女性がメニューと水の入ったグラスを持ってくる。私は窓に目をこらすようにして、そうですねえ、と言った。

「でもお天気がいい日はここ、最高のロケーションなんですよ。お客様も、ここから見る湖が一番きれいってよく言ってくださいますし……」

「そうなんですか……あ、紅茶ください。ミルクティで」

「ホットでいいですか?」

 やらせやつくりではない、自然な笑顔を見ながら、私ははい、とうなずいた。霧で外はすっかり気温が低くなっている。体中が冷えているのが分かった。

 なんとなく部屋中を見回すと、カウンターにマスターらしい人と、親しげに話している男性が二人ほどいる。雰囲気からして、常連のようだ。私とは反対側の窓側には、こちらは観光客らしい3人連れの若い女性がいて、楽しそうに笑い声を響かせている。

 テーブルにはひとつひとつ小さな花瓶と花が飾ってあり、私の目の前にはピンクのガーベラがちょこんと生けてあった。

 ガーベラ……あの子が好きだったなあ、そういえば。ふと私の頭の中を、一人の友人の笑顔が駆け抜けた。友人……以前は誰よりも気持ちを分かちあえた親友だった彼女の姿が。

 旅行へもよく二人で行った。会社の安い保養所は常連だったし、遠く北海道まで一緒に行ったこともあったっけ……。ああやって、その旅先でお洒落な喫茶店を見つけては、キャーキャー笑いあったなあ。私は反対側にいる3人の笑い声を聞きながら、思う。

「お待たせしました。ミルクティです」

 突然頭上から声がかけられた。慣れた手つきで女性が私の目の前に暖かそうな紅茶のポットと、カップ、ミルクを並べていく。

「いつからこちらにお越しなんですか?」

 ポットを手に取り、湯気の出ている赤茶色の液体をカップにつぎながら言う女性に、私はええっと、と言って、

「4日ほど前に来ました。ここは、とてもいいところですねえ」

「4日間も!そんなに滞在していただいて、喜んでいただいて、地元の私たちもうれしいです」

 本当にうれしそうに微笑むと女性は言った。

「あの、すみませーん」

 そこへ、明るい声がかかった。さきほどの三人組がドアの近くにあるレジのカウンターに立っている。女性は私に軽く会釈すると、急いでそちらへ向かう。私は紅茶に砂糖とミルクを入れて、かき混ぜるとそっと一口飲んだ。温かい液体が喉から体に落ちていくのが分かる。

「あのー、ここの、喫茶店の、伝説聞いたんですけどー……」

 支払いを終えた三人のうち一人が、おずおずとそう切り出すのが聞こえた。

「ええ、はい。その看板のことですか?まあ、どこからともなく広がり出した噂なんですけどね。試したければ、この先の曲がり角で立ち止まって、振り返って見てください。ちょっと……、まだ霧が濃いので、見えないかもしれないんですけどね」

 明るく言う女性の言葉に、三人はちょっと恥ずかしそうにお辞儀をすると、派手な鐘の音と、甲高い声を響かせながら出ていった。

「マスター、なんだかんだ言って、伝説のお陰で人が来てるじゃないか」

 からかうように、カウンターの男性がちょっとしわがれた声を響かせて言った。マスターは苦笑して、そうですねえ、と答えた。

「それにしてもあの伝説、見た人っているのかなあ。俺なんかこういう霧の日、必ずあそこで振り返ってみるけど、ぜんぜん見えやしないよ」

「フジタさんの場合、老眼なんじゃないのー?」

 フジタとよばれた、朝食を食べていたらしい男性は、マスターにコーヒー、と言ってから、

「ばーか、老眼ってのは遠くのもんはよく見えるんだろ。そうじゃなくってさあ、こういう霧の日は、いくらあそこの角から目、凝らしたって、真っ白で看板なんか見えやしないんだよ。さっきの3人もキャーキャー言って目をこすってるんじゃないかあ?な、マスター」

 フジタさんの言うことに耳を傾けて、私はなるほど、と思った。どうやら先ほどの、大きな木のあった曲がり角で振り返ると、看板の文字が変わって見えるという伝説らしい。でも確かにさっき来るとき見たあの様子では、とてもあんなに離れていて看板が見えるとは思えない。林を抜けて、喫茶店のBGMが聞こえるほど近くまで来て、やっと見えたのだ。そうか。だから『伝説』なのかもしれないなあ。

「だから、伝説、なんですよ。見られるか見られないか、っていう微妙な所がいいんじゃないんですか。ね、タカハシさんだって見たことないですよね」

 ちょうど私が思っていたことと同じことを、三人のいたテーブルを片づけながら女性が言った。最初からカウンターに座っていた、タカハシさんはしわがれた声で、日頃の行いが悪いからなあ、と言って笑った。

 2杯目の紅茶をカップにつぎながら、窓の外を見ると、さっきと全然景色が変わってない。真っ白のままだ。これじゃああの3人組も伝説の看板は見えずに、がっかり半分、期待を残して去っていくだろう。伝説なんて、そんな曖昧な上に成り立つから、不思議で神秘的で、魅力があるのかもしれない。

「ねえ、お嬢さんも、伝説聞いてきたのかい?」

 急にタカハシさんのしわがれた声がかけられ、私ははっとしてカウンターに視線をうつした。後ろ姿ばかりで顔が見えなかった、二人の五十代以上に見えるおじさんと、口ひげを生やしたマスターがこっちを見ていた。

「え、えーと、まあ、そうですね……。民宿の奥さんに散歩がてら、って勧められたので……。でも、どういう伝説なのか、まだ詳しく知らないんです」

「あら、そうなんですか」

 奥さんは意外そうな声を出して、マスターのほうを見た。マスターはその視線に答えるかのように、こちらに微笑んで、

「……ええっとですね、この伝説は果たして、『伝説』と呼べるものかどうか分からないんですが……。この喫茶店を出て、細い道を歩いて行くと、曲がり角があったと思うんですが、あの曲がり角で立ち止まってこちらを振り返ると、この喫茶店の看板に、その日のあなたの記念日が見える、っていう伝説なんですよ」

「記念日……?」

「そうです。つまり今日がお客さんの誕生日だったら、看板には『誕生日』って出るんだそうです。その日がその人にとってどんな記念日なのか、それが現れるっていう伝説なんです」

 マスターの、優しさを感じる低い声にカウンターのおじさんたちも、うんうんとうなづく。私は分かったような分からないような気持ちでなんとなく首をかしげた。だってその人にとっての記念日が偶然その日に当たるなんてことは、あんまりないんじゃないだろうか。記念日、と呼べる日は年に十回もないのだ。

 ふと墨で縦書きに書かれた、この喫茶店の名前を思い浮かべた。

「ああ、そうなんですか……。だから、この喫茶店は『アニバーサリー』って言うんですね」

「まあ、それもあって伝説なんてものが出たんですよね。英語でいう『記念日』だから……。でも嫌な伝説ではないし、なんとなくロマンチックな感じでしょ?だから、別に気にしてないんですよ」

 奥さんがテーブルまで寄ってきて、水をつぎながら言った。私はうなづいて、先ほど思った疑問を口にしてみた。

「でも、その人にとってその日が偶然、なにかの記念日だったことなんて、なかなかないですよね。やっぱりその看板を見れた人って、運がいいんでしょうねえ」

「あら、そんなことないわ」

 綺麗な二重まぶたの瞳に強い意思が光って、奥さんはきっぱりと言った。

「私、最近特に思うんです。記念日っていうのは、生きてるうちは、ほとんど毎日三六五日が、それぞれ何かの記念日なんじゃないかって」

「毎日……ですか?」

「うーん、言い方がちょっと違うかも知れないですね。つまり、毎日、何かの記念日になり得る可能性があるってことです。だって、誕生日とか結婚記念日だとか、まあいわゆる『記念日』ってそういうもののイメージが強いじゃないですか。でもあからさまに何かした日、ということじゃなくっても、『記念日』という言葉の意味に当てはまることは、毎日一日のうちにあるかもしれない。その日……例えば今日だって、まだ明日になるまで何時間もありますけど、この今日という日は一生で一度しかないじゃないですか。一日が終わってみて、よく考えてみたら、もしかしたらああ、今日は○○の記念日だったなあって思うことがあるかもしれないし……」

 『アニバーサリー』と書かれたエプロンのポケットに両手をかけて、奥さんは瞬きを何度もしながら、柔らかに話した。私はその言葉を、心の中でゆっくり反芻する。

 毎日が何かの記念日になる可能性がある。今日という日は一生で一度しかない……。確かにそうだ。一生と言うよりも、すべてだ。すべての時間の流れの中で、たった一度しかない。全く同じ日は二度と来ない。

「だから一日終わって、ベッドの中で考えたとき、本当に何も思いつかないような日だったら、その日はその人にとって最低の日なんじゃないかと思うんですよ。だってどんなに嫌なことでもいいことでも、はっきり印象に残って思い出せるという時点で、『記念日』になると思うんです。良くも悪くもない、何もない日が一番つまらなくて、そしてなにも残らない、最低の日じゃないかしら……ううーん、うまく言えないわ。ごめんなさい。なんだか変なこと言っちゃいましたね。すみません」

 ちょっと恥ずかしそうに笑って言うと、タイミング良くマスターに呼ばれてカウンターへ行ってしまった。白いカップを両手で包むように持ち上げて、私は中身をひとくちすする。

 記念日……。嫌なことでもいいことでも、強く印象に残って、思い出になるようなことがあった日をそう呼ぶとすれば、確かに記念日にならない、という日ほどつまらない一日もないだろう。だけど何もない、ふつうの毎日ばかりだからこそ、たまにある、そういうあからさまな思い出を持つ日が『記念日』だともいえるのではないだろうか。

 カップを置き、よく磨かれた、茶色い木のテーブルに肘をつく。その反動で、かすかにテーブルの上のガーベラが揺れた。

 あ、そういえば、今日は彼女の誕生日だったんだ…。さっきからこのピンクの花を見て何度か浮かんだ元親友の笑顔を思い、妙に納得する気分で私は小さくうなづいた。しかし偶然とはいえ、何年か前の今日、プレゼントとしてこの花をあげたことがある。あのときは、顔を見ることさえ辛く思う日が来るとは予想もしていなかった。

 今頃、何をしているのだろう。ピンクの花びらにそっと触れながら、私は遠く都会のビルで一緒に会社員をしていた彼女の姿を思い浮かべた。そして、その彼女の隣に、同じように会いたくなくなるとは想像もしなかった、男性の影を自然に並べた。

「そういえば、どちらに泊まってらっしゃるのかしら?」

 カウンターの向こうから、奥さんが聞いてきた。

「『緑荘』です。あの、赤い屋根の……」

「えっ」

 その奥さんの声があまりにも大きかったので、驚いて私はティーカップを落としそうになってしまった。常連さんたちもびっくりした顔で、奥さんの方を見ている。それから、タカハシさんが、ああ、と言って手をぽんとたたき、

「緑荘って……、そういえば、あそこの奥さんと、サヤコさんたちは……」

「おい、やめろよ!」

 フジタさんに後ろからこづかれ、はっとなってタカハシさんは黙りこんだ。気まずい沈黙が流れ、その雰囲気に似つかわしくない軽快なギターの音色が響いた。

 私はその沈黙の理由も、何も分からず、自分が何か大変なことを言ってしまったかと内心うろたえて、落着かない視線をあちこちにさまよわせた。その目が、ふきんを持ったまま立ち尽くしている奥さんにとまる。彼女は、何か信じられないものを見るような目つきで、じっと流しの中を見つめたまま、ぴくりとも動かない。

「……そろそろ、時間大丈夫ですか?フジタさん」

 その沈黙を破って、マスターの低い声が響いた。フジタさんとタカハシさんは慌てたように席から立ちあがり、あ、そうそう。もう行かなきゃ、と言ってマスターとともにレジに向かった。

 二人が派手な鐘の音を響かせて出て行くと、ゆっくりとした動作で奥さんは水道をひねって、グラスを洗い始めた。

「あの、すみません。私、何か変なこと……」

 言いかけたとき、マスターが優しそうな笑みを返して、ゆっくりと首を振った。

「なんでもないのよ。ごめんなさいね、変な声出しちゃって」

 先ほどの明るさを取り戻した声で、奥さんは言って、蛇口を閉めると笑顔に戻った。

「この喫茶店、私が学生の頃からあったんですよ。昔、友達と何度もこういう霧の日は伝説を試したことがあるんです」

 言いながら奥さんは、ポットを持ってきて、サービスです、と言って空になった私のカップへ注いでくれた。

「へえ……。それで、どうでした?見えました?」

 ふいに始まったこの話に乗ることで、先ほどの気まずさがなくなっていくことを思い、私も明るい調子で言った。奥さんは少し残念そうな顔で、

「それが、全然。一度も見えたことないんです。でもね、いつもいっしょにこの喫茶店に来ていた友達は、見たみたいなんです。この喫茶店に来るときは、必ず一緒に行こうって約束していたのに、ある日彼女はひとりで来て、それを体験してしまった……。突然、電話がかかってきて、さーこ、…あ、私のあだ名なんですが…、さーこ、見たよって。この伝説を体験した人って、私の知ってる限りは彼女だけ……。」

 懐かしそうな表情でそう言って、奥さんは何も見えない窓の外へ視線を投げた。

「なんて書いてあったのか、聞きました?」

 私が言うと、奥さんはいいえ、と言ってから、少し怒ったような表情になって、

「裏切られたって思ったんです。一人で見に行くなんて……。でも、本当は、先に裏切ってたのは、私なんです。あの霧の日、彼女の誘いを断って、私はひとりで先にこの喫茶店に来ていた。彼女はきっと、私を恨んだでしょう。あの最後の電話から、私は一度も彼女と話してません。だから、知らないんです。でも……、今日は、大切な記念日になるかもしれない。お客様が『緑荘』の奥さんに薦められてこちらに来たってことを聞いて、驚いたけど、とても今、うれしい気持ちなんです」

 そう言ったとき、例の派手な音を鳴らしてドアが開き、若い男性客が入ってきた。

 奥さんとマスターがほぼ同時にいらっしゃいませ、と声をかける。たった一人の客であったが、あわただしい空気が店内に流れた。開いたドアから外の冷気が流れ込み、先ほどまで部屋に漂っていた空気と、入れ替わったようだった。

 奥さんはメニューと水を持って、霧すごかったでしょう、と声をかけながら、男性が座ったテーブルに向かっていく。ちょうど私から、メニューをうつむいて見つめる彼の横顔が見えた。低い声でぼそぼそと何か注文している。地元の人ではなく、観光客のようだった。

 窓の外は相変わらず白い。じっと見てると、この霧はそのうち雨に変わるんじゃないかと思われてくる。雨……、私の部屋にびしょぬれで目を赤くした二人が現れた日が、そういえば雨だった。急の土砂降りだった気がする。

 ミルクティの温かさを体に染みわたらせながら、私はあの時の情景を、自然に思い浮かべることができた自分に驚いた。以前は思い出したくもなかったのに、思い出すたび、胸にどーんと鉛を入れられたように苦しかったのに、そんな痛みは今、ほとんど感じなかった。

 心地良い静かなメロディと、温かいミルクティが私の心を解きほぐして、苦しかった気持ちとはまた違う、ある種の旅愁に似た気持ちが、かわりにゆっくりと心に忍び込んできた。けれどもそれは、なんだか満足感を伴っていて、決して嫌な気分ではなく、五ヶ月間の一人旅の、さまざまな出来事が思い出された。

 ピンクのガーベラを見つめていると、私の大好きだった二人の姿が、並んで歩いているところがふわっと想像された。そして彼女が、いつか私がこの花をプレゼントした時のような笑顔でいるといいんだけどな、と心から願った。

 レジに立って支払いをすませると、奥さんがすみませんでした、と謝って来た。

「訳のわからないことをお話しまして……。どうか、忘れてくださいな。……それから、『緑荘』の奥さんにも、よろしくお伝えください」

「ええ。それと、出しそびれてしまっていたんですが、この封筒、預かってきたので、お渡ししますね」

 言ってブルーの封筒を差し出した。受け取り、宛名を見ただけで奥さんは目に涙をにじませて、私に頭を下げると、素晴らしい笑顔になって、ありがとうございました、と言った。『泣き虫さーこ』という言葉が浮かんで、見たこともない、奥さんの若い頃の姿がなぜか脳裏に浮かんだ。

 例の派手な音がするドアに手をかけたとき、伝説のこと聞いたんですけど、と遠慮がちにマスターに話しかける男性の声が聞こえた。マスターは笑顔で、先ほど私に話したことと同じ様なことを言っていた。

「実は、今朝ここへ着いたばかりなんですけど、そこのバス停で会った人に聞いたんですよ。おもしろい伝説があるから、行ってみろって」

「じゃあ、地元の人かな?」

「いや、観光客のようでしたよ。一人旅っぽかったです。大きくて派手な緑色のリュック背負った、背の高い若い男性で……。その人が言うには、ここの伝説は嘘じゃないって。自分もはっきりこの目で見たからさ、って」

「え?本当ですか?見たって……?」

 そんな会話を聞きながら、もう一度頭を軽く下げると私はドアを勢いよく開けた。そうやって、嘘でも本当でも人から人へ伝えられながら、伝説は広まってゆくのだろう。来たときよりも軽い足どりで私は玄関を出ると、相変わらずの真っ白な世界に飛び込んだ。

 幾分かさっきより視界が広がった気もするが、湖のほうへと視線を向けてみても、やっぱり何も見えない。この分じゃ、曲がり角から振り向いても、この伝説は簡単には謎を解かせてはくれないだろう。

 でも、もし見えたとしたら、今日は私にとってどんな記念日になるのかな……。ふと、昔ここで伝説の看板を見たという、奥さんの友達の話を思い出した。彼女……おそらく私の泊まっている宿の、あの奥さんは、いったいなにを見たのだろうか。ふたりでここに通っていたのは、ただ伝説を見るためだけじゃなかったのかもしれない。私はあのマスターの、若い頃はおそらく目立ったであろう容貌を想像した。そして、寄り添っている二人の姿と、その親友を偶然見てしまった『緑荘』の奥さんの姿が、妙にリアルな映像となって私の頭に広がった。

 次の瞬間、喫茶店の中にいる二人は、懐かしい笑顔の男性と、ピンクのガーベラを抱いた親友に変わり、外からぽつんとそれを見る、自分の姿の映像に差し変わった。けれどもその場面を、私は自分でも驚くくらい冷静に受け止めていた。心は思っていたほど波立たない。上から幕が降りるみたいに、その映像は消えていった。

「私もいつかブルーの封筒を渡せるかな」

 小さくつぶやいて、白い世界を見渡した。それはとても勇気がいることのように思われたが、全く不可能なことではないとも思えた。渡してみたいという願いが、心の奥底で静かに動いていることに気づいた。

 すぐ目の前に大きな木が迫ってきた。もうすぐ曲がり角だ。

 私はちょっと躊躇し、迷ったが、やはり一応来たからには確かめてみるか、と曲がり角で立ち止まった。

 周囲は真っ白な霧に包まれて、鳥のさえずりも聞こえず、静まり返っている。ちょっと緊張、そんな自分に少しおかしくなって、私は思いっきり、くるりともと来た道を振り返った。

 目の前に広がるのは白い海。やはり何も見えない。かすかにぼうっと喫茶店の明かりが見えるかな、といったところだ。そう、伝説なんだから、これでいいんだ。

 それでもどこか心の隅でがっかりしている自分に気づき、思わずにやりと笑うと、私はきびすを返し、道を曲がろうとした、そのとき!

 さあ、っと風が足元を駆け抜け、静かだった木々をざわめかせた。そしてよどんで白く視界を遮っていた霧を切り裂くように走り抜けると、背の高い木々に挟まれた細い道と、その先にあるログコテージ風の喫茶店が、私の目の前に現れた。

 窓からは明かりが漏れ、その下に色とりどりの花を並べた花壇がある。そして……。私は視線をすっとずらしていって、あの派手な音をたてる、重そうな木のドアと、その隣の黒い墨で描かれた縦長の看板に見入った。

 実際は一瞬のことだったろう、切り裂かれた白い壁は、あわてたように端から寄り添って、すぐに視界を再びぼんやりと曖昧なものにした。

 しばらく私はじっとして、まるで生きているような霧の動きに目を奪われていた。はっと気づくと、曲がり角よりも喫茶店のほうへ二、三メートルほど寄っていた。無意識のうちに、足が動いていたようだ。

 私はゆっくりと振り返ると、再び曲がり角への道を進んだ。そして今度は振り返らずに、道を右へと折れて、細い道へと進む。知らず、早足になって、ふいに足下が何かにつまづき、転びそうになった。その拍子に、上着のポケットから赤い懐中電灯が転げ落ちた。

 拾おうとして、さっき喫茶店で男性が言っていた言葉を思いだし、はっとした。彼は、バス停である人にこの伝説のことを聞いた、と言った。そのある人の風貌とは、派手な緑色のリュックで背の高い男だと言う。

 私は拾い上げた赤い懐中電灯を見つめた。耳に、森中に響くセミの声が蘇った。あの夏と秋の狭間の日、出会った男性の笑顔をみるみるうちに思い出す。派手な緑色のリュックを背負った背の高い彼のことを……。

 瞬間、心のどこかが大きく波立って、体の内から熱いものが湧き出るのを感じた。その熱いものの行き場に私はとまどって、深い深いため息をついた。

「偶然、だよね……」

 小さくつぶやいて、私はゆっくりと歩き出した。けれども頭の中は、あの笑顔でいっぱいのままだ。

 もしも、あの彼だとしたら……、偶然とはいえ、あの『季節のトンネル』と、ここと、伝説の場所へ彼も来ていたことになる。そして、彼も、二つの伝説を、感じたようだ。

 私はもう決して風が吹きそうにもない、白い闇にじっと目を凝らしながら、先程見た、目を疑うような光景を思い出した。

 『アニバーサリー』と書いてあったあの看板に、私はあのとき確かに違う文字を見た。それが自分の思いこみだったとは言えないだろう。なぜなら、そこには思いもしなかった言葉が見えたからだ。

 あの白い霧の中から現れた言葉、それは「卒業」だった。

 木々に挟まれた細い道が終わり、湖のほとりに出た。霧は林の中よりもずっと晴れていて、透明で冷たそうな水面がさらさらとわずかな風に揺れている。

 しばらくそんな美しい風景を眺めた後、私は荷物をとるために民宿へ向かった。気づくと、その私の二、三歩前を派手な緑色のリュックを背負った人が行く……そんな幻が私の心に現れた。彼は今朝、ここを発ったと言う。

 いつの間にかこの旅の目的が変わっていくようだった。私は思わずこぼれる笑顔で、目の前の霧をかき分けるようにして、つぎの目的地を頭の中であれこれと思索した。頬をなでる風がはっきりと冬の到来を告げていた。



おわり

 

素敵な絵をわたなべじゅんさんがプレゼントしてくださいました。Thanks!!




comment


水のある風景が好きです。でもそれは、海ではありません。

海は嫌いじゃないけれど、山が好き。

山にある、湖や小川や、池の景色が大好きです。

木々に囲まれた水を見ていると、いろんなことが

良い方向に考えられるような気がするからかな。



Story & comment by みえ





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