連載小説「旅色の空」第6回
幸福の花びら
作・み え
***前回までのあらすじ***
恋人と親友が一緒に現れた次の日から、「私」はひとり旅に出た。
行く先々で出会う人々や、その地に伝わる伝説の不思議な体験に触れるうち、少しずつ失恋の傷は癒されてゆく。
あるとき、旅の途中で出会った『派手な緑のリュック』の男性と、その後も偶然のすれ違いが続く。
いつの間にか心深く残った彼と、もう一度会いたいと思いながら、「私」は彼の姿を追って旅を続けていた。
ゆるやかな坂道の途中の小さなバスターミナルに降り立つと、少し山に分け入ったせいなのか、ひんやりとした空気が頬を刺した。三月のまだとても春とは呼べない風が、付近の林の枯れ木を騒がせて、私の髪を巻き上げた。
ぐるりと周りを囲む木々の足元はまだ白く、所々で土色がひょこひょこと顔を覗かせている。
最後に滞在した町で教わった、小さな梅の丘の伝説。そこを目指して、私は数時間のバス旅を続けてきていた。
予定では、この停留所で乗りかえなければいけない。バス停のそばの時刻表を覗きこみ、思わず「え?」と声をあげてしまった。
「次のバスは…二時間後?」
何度確かめても、その時間に変わりはない。深くため息をついて、私はリュックを担ぎなおした。仕方ない、どこか休むところでも探すか。
きょろきょろしながら道路沿いをゆくと、すぐに小さな喫茶店を見つけた。白く塗られた扉を開いて中に入ると、お客は二人しかいなかった。
「いらっしゃいませ」
愛想のいい笑顔で水を運んできた、中年女性の店員さんに紅茶を頼むと、ぱらぱらとガイドブックを開く。ここは小さな町らしく、その名前はどこにも載っていない。地図を目を凝らして見ていると、紅茶を持ってきた店員は、あら、と言った。
「お客さん、観光客?めずらしいわね、こんなところに」
私は曖昧にあはは、と笑った。
「いえ…この先の町に行く途中なんです。バスを乗り継ぐのに、時間が余っちゃって」
「ああ、そうなの。もしかしたら、『さくらの里』に行くのかと思っちゃった」
納得したような顔で頷いて、会釈すると行ってしまった。『さくらの里』?どこにでもあるような、観光名だなあ。名前だけで十分察しがついてしまう。特に気にもならずに、私は紅茶を飲んだ。
「『さくらの里』なんて、大した観光地でもないのに、そう観光客は来ないだろ」
常連らしい男性客のひとりが、先ほどの店員に話すのが聞こえた。
「あら、でもこの間、来たのよ。すごく熱心に調べてるひとが。だから、もしかしたら最近は有名になったのかと思っちゃったわ」
「へえ、珍しいな。こんな時期に。桜なんて咲いてもないのになあ」
軽快な音楽が流れる店内で、男性客と店員女性の会話は、特に耳をそばだてていなくても、つらつらと入ってきてしまう。
「それがね、ちょっと変わってて。昔話であったでしょう、早く咲く桜の話。どうやら、あれを調べてたらしいのよね」
「へえ」
何の気もなしに耳を傾けていた会話に、ふと私は興味をそそられ、ふたりの方へ視線を向けた。早く咲く桜の話?
「あ、その人知ってる!背の高い、色黒の男の人でしょう?うちにも来たもの」
「あら、役場にまで行ってたの。そうそう、ちょっとイイ男よねえ」
奥に座っていた、グレーの制服姿の女性が言った言葉に、店員はにやにやと笑って答える。私は持っていたカップを、思わず落としそうになってしまい、受け皿がカチャンと大きな音を立てた。一斉にみんながこちらを振り返る。
「あ、あの、その人って、もしかして、緑色のリュック背負ってませんでした?派手な、緑色の、大きな…」
知らず声が上ずってしまう。店員の女性は不審そうに眉を寄せながら、何度か頷いた。
「確かそう…だった気がするけど、その人、あなた知ってるの?知り合い?」
「あ、はい…ええ、まあ。あの、その人のこと、探してるんです。どこへ行ったか、ご存知ですか?」
立ち上がって言った私の胸は、どくどくと大きく震えていた。つい瞬きの多くなってしまう目の向こうで、店員と制服姿の女性が、びっくりした表情で顔を見合わせている。
「こんにちはーっ!頼まれてたもの、持ってきましたよー!」
そのとき、勢いよく扉が開かれて、明るい声が静まり返った店内に響き渡った。
立ちすくんだまま、振りかえると、両手にプラスチックの大きな箱を抱えた若い女性が、小さな異常に気づいたのか、ぽかんとした顔をしている。店員の女性ははっとしたように、
「ああ、ナミちゃん。ありがと」
と言って、白い箱を彼女から受け取った。それから、突っ立ったままの私に向き直ると、
「そうだわ、ナミちゃんなら、知ってるかもしれませんよ」
色とりどりのケーキが並んだ箱をテーブルに置きながら、満足げに彼女は微笑んだ。
とろけそうな甘い香りが漂う車内の助手席に座ると、彼女は車を発車させた。
「すみません、なんか、お仕事中に…」
「いいえ、いいんですよ。今日はもう配達、終わりだから」
さらりと言って、明るい笑顔をこちらに向けた。ケーキ屋だというナミさんは、4日ほど前、この地を訪れた緑のリュックの人に、案内をしたという。
「でもすごいですね、自分のお店を開いたなんて」
半年前、生まれ育ったこの地で、ケーキ屋を始めたと言う彼女は、私とほとんど変わらない年代に思えた。
「それがもう、大変なのよ。こうやって、喫茶店やレストランに置いてもらったりして、大分助かってるの。町の外れに建てちゃったから、お店にはあんまりお客さん、来てくれなくてねー」
無謀だったわ、と言って笑う。短い髪と化粧っ気のない顔が、逆に彼女の魅力を引き出してるようで、私は、緑のリュックの彼が彼女に出会ったことを思い、急に胸がしめつけられる痛みを感じた。
「あの、それで、そのひとは…」
「ああ、あの、派手なリュックのひとね。この地元にね、昔から伝わる話があって、それを調べるため、2日間ぐらいかな?この町に滞在してたみたいなの。あ、ほら、見えてきた。あれが『さくらの里』」
ナミさんは、車のスピードを落とすと、右前方を指差した。二本の大きな樹に挟まれて、白い看板が立っている。そこに、『さくらの里へようこそ』と書かれていた。
看板の向こうには、桜の樹がまだ裸の枝を押し合い、ひしめきあって立ち並んでいる。
「満開のときはね、あっちの並木道とか、すごく綺麗なのよ」
「そうでしょうねえ。見てみたいな」
桜林の周りには、のどかな畑が未だ残る雪を白く積もらせて広がり、薄曇の空の下で、美しい山並みがそれらを囲んでいた。私は、桜の花が満開になったときの風景を想像して、きっと日本中にあるだろう『さくらの里』という言葉が、この地にもぴったり当てはまるのを感じた。
「もちろん、咲くまでにはまだまだあるんだけど…。でもここにはね、この時期、一本だけ早咲きする桜が存在するっていう伝説が、あるのよ」
「早咲きする桜?」
「そう。それで、子供の頃、私がそれを見たことがあるっていう話を、どこからか聞いて、そのひとが私のところへ訪ねてきたの」
車は『さくらの里』を少し行ったところで右に曲がり、止まった。小さいけれど、瀟洒な白い建物が、銅製の看板を店先に掲げて建っていた。
ナミさんは、店番をしていたバイトに来てくれてるという友人に声をかけると、私をお店の奥の事務所に招き入れてくれた。
「ところで、あなたは彼と知り合いなの?」
事務所とは名ばかりの、狭い部屋のテーブルで、紅茶をカップに注ぎながらナミさんは言った。私は、今までのことを思い描きながら、ぽつりぽつりと話した。彼と出会ったこと、そしてその後の、行く先々でぶつかった偶然…。店先からケーキを持った友人が現れて、途中から興味深そうに聞いていた。
「へえ…。そういうことって、あるのねえ」
紅茶をすすって、ナミさんは感心したように言う。ナミさんの友人のトモコさんも、そうねえ、と頷いた。
「もう一度だけ、どうしても会って、話してみたくて」
「なるほどね。…うん、あのひとは、ちょっと、イイ男だったわね」
つぶやくように言ったナミさんの言葉に、胸が音を立てて鳴り出す。トモコさんが、なに言ってるのよー、と笑う。
「あ、あの、それで、その桜の木は、本当にあるんですか?」
私は鼓動を押さえるように、おなかに力をいれながら、早口で言って紅茶を飲んだ。
「それがねえ、よく分からないの。私もね、この裏山にも桜の木がたくさん続いてて、その辺だってことは分かるんだけど、子供の時に見て以来、行ったことがないから」
「え、どうしてですか?」
ナミさんは、少し笑うと、紅茶を一口飲んで、
「だって、もし咲いてなかったら嫌じゃない。夢はそのままで、壊したくないもの」
ふうん、そんなものだろうか。私だったら、好奇心を抑えきれないかもしれないな。
そんな私の考えを読んだのか、ナミさんは少し笑って、
「だって、本当に綺麗だったのよ、夢みたいに。まだ深い雪が積もる林の中で、白い息を吐きながら見た、満開の桜って。そこだけ、きらきら光ってるみたいで。だから子供の頃はずっと、誰にも内緒にしてたの。大人になって、数人のひとに話して、実際行った人もいるみたいだけど…。実は、恐くて結果は聞いてないの」
そう言って笑ったとき、お店のほうから声が聞こえて、トモコさんは慌ててそちらへ行ってしまった。
私は手をつけていなかったケーキを口に運んだ。イチゴの載ったクリームの柔らかい甘さが、口全体に広がった。
「おいしい!」
思わず言うと、短い髪を手でなでながら、彼女は嬉しそうに笑う。そのまぶしい笑顔に、少し引け目を感じてしまった。
「でもねあのひと、ほんとイイ男だと思ったのよ」
「え?」
その悪戯っぽい言い方に、顔を上げて見ると、ナミさんは自分もケーキを口に運びながら、話した。
「伝説には続きがあってね、その早咲きの桜の花びらを贈ると、贈られたひとは、幸せになれるっていう話があるの。…私、実は婚約してた人とケンカしちゃってね。それで悩んでたこと、ついあの人に話しちゃったのよね。なんだか、話しやすい人だったから」
照れ笑いしながら言う彼女の言葉に、私は自分が彼と出会ったときのことを思い出した。時が経つにつれ、霞んで行く記憶の中の、それだけははっきりと思い出すことの出来る、優しい笑顔。ナミさんの言うことも分かるような気がする。
「そうしたら、あのひと、桜探して贈ったらって言うのよ。私が無理だって笑ったら、絶対あるって、探してあげるって言ってくれたのよね」
そのときのことを思い出すように、目を細めて、彼女は空中を見つめた。
私は聞きながら、胸が熱くなるのを感じて、何度も何度もため息をついた。ナミさんと話す彼の姿を想像し、窓の外の林を見つめた。まだ白い雪を残す足元の、ところどころ土色がはみ出した地面を歩いて、緑のリュックが木々の間から見えるような気がする。
「それで、そのひとは、見つけたんでしょうか?」
雪を踏みしめる足音までが聞こえそうなほど、何故か彼を間近に感じながら言うと、ナミさんは首をかしげた。
「それがね、分からないの。彼は帰るとき、ここに来てくれたみたいなんだけど、その日はお店、閉めてたのよ。で、そこのガラス戸に紙切れが挟まってて、ありがとうございました、としか書いてなかったの。でも、その後、不思議なことに気づいたのよね」
ふふ、と笑って紅茶を飲む。話の続きをそのまま待っていると、トモコさんが顔を出して、神妙な表情で、ナミさんを手招きした。ちょっと待ってて、と彼女はお店に行ってしまった。
一本だけこの時期に咲く、桜の木。そしてその花びらを贈ると、幸せになれるという伝説…。彼はこの後、どこに旅立ったのだろう。
ぐるりと小さな事務所を見渡す。店頭へのドアとは違う方向にある扉の向こうは、厨房のようだ。私は、ため息をついた。年齢もあまり変わらない女性が開いたお店。経営が苦しいといっても、自分の好きなことで頑張れるなら、それほど充実した毎日もないだろう。ナミさんの、どこか輝いた瞳に、私は自分が今、どんな顔をして映っているのかを思って、もう一度、落ち込んだ気分になった。
「ごめんなさいね、ナミにお客さんが来ちゃって」
トモコさんが現れた。よいしょ、と椅子を引いて座ったとき、初めて私は彼女のおなかが大きいことに気づいた。
「あれ、そのおなか…。赤ちゃんいるんですね。気づかなかった」
柔らかいパーマをかけたトモコさんは、うふふ、と微笑み、
「そうなのよ。なんだかねえ、もともと大柄なせいかしら、気づかれにくいのよね」
と言いながら、ピンクのエプロンに包まれたおなかをさする。それから、自分の紅茶を新しく注ぎ直すと、おいしそうに飲んだ。
「はーあ、それにしても、あなた、もう随分長い旅を続けてるんでしょ?なんだか、うらやましいなあ」
「いいえ、いい加減な生活を続けてるだけです」
少し苦い気持ちで笑いながら、言った。
「それが羨ましいのよ。なんだか、ナミはしっかりと自分の夢叶えてるし、あなたもそうやって、一人旅を続けていて。私はただ、平凡に結婚して子供を産むだけ。同じ年を生きてるはずなのに、差があるものね」
トモコさんは、最後のほうはしょんぼりとした口調で言って、窓の外へと目を向けた。
優しく細められた瞳を持つ彼女は、もうすぐ母親になる。なくした恋の辛さに耐えられず、逃げるように旅を続ける私がどうして、そんな風に言われるのか。私はさっぱり分からなかった。それをそのまま口にすると、トモコさんは不思議そうな顔になった。
「逃げてるだけで、こんなに長く旅はできないでしょ?一人で続けるって、やっぱりすごく勇気がある気がするなあ。私にはきっと、真似できない」
「でも、トモコさんのほうこそ、ずっとすごいって思います。お母さんになることだって、何も努力しなくてできることじゃないと思うから」
そう、私にはまだまだ、考えもつかない遠い世界なのだ。トモコさんは、しばらく私の顔をじっと見ていたけれど、突然ぷっと吹き出して明るい笑い声を立てた。
「あはは、お互い、結局、無いものねだりってことかしら。まあ、とにかく、ひとそれぞれで、毎日を頑張るしかないってことかなあ」
つられて笑いながら、その何気ないトモコさんの言葉は、その後私の心に深く残った。
「あ、いけない。バスの時間!」
はっとして時計を見ると、いつのまにか、あと30分しかない。私は慌てて席を立ちかけて、一番聞きたかったことをまだ聞いてないことに気づいた。
「そう、それで、あの彼は、次はどこに行ったのか、分かりませんか?」
「え?あ、そうそう、あの緑のリュックの男の人ね。どことははっきり言ってなかったけど、多分あなたと同じ方向へ行ったんだと思うわ。梅が見たいって言ってたから」
胸が再び早く鳴り出し、妙に焦る気持ちで私はリュックを肩に背負った。
「ごめんなさいね、私、運転できないから…。ナミも、取り込み中だし、歩いてもここからだったら、15分ぐらいで着くと思うわ」
私の焦りが伝わったのか、トモコさんはメモ用紙にすばやくバス停までの地図を書いてくれると、はい、と渡してきた。
「それじゃあ、ありがとうございました。ナミさんにも、よろしく伝えておいてください」
「ええ、あなたも頑張ってね」
言いながら、ドアの外まで見送ってくれる。ふいに先ほどのナミさんの話を思い出して、私はトモコさんに聞いた。彼が残したガラス戸のメッセージを見た後、気づいた不思議なこととは…。
「ああ、あれね。大したことじゃないんだけど、ガラス戸の紙切れを見つけたとき、その足元に桜の花びらが落ちてたの、一枚。ただそれだけよ」
お店を一歩出て、ナミさんにせめて軽くお辞儀だけでもしようと、ガラス張りの店頭の方へと視線を向けると、彼女は茶色いコートを着た男性と話し込んでいるようだった。
「もしかして、ナミさんの婚約者ですか?」
同じように、私と外からその光景を眺めてるトモコさんに聞くと、彼女は少し寂しげな表情になって、小さく頷いた。
「でも、多分、結婚はしないかもしれない…」
「え?」
予想もしなかった答えに、驚いてしまった。
「ナミは、せっかく自分の夢を叶えて、でもそれを、彼は認めてくれないみたいで。どこまでいっても平行線なのよ。ナミが、どちらかに決めないと、うまく行かないと思う」
二人の姿をじっと見つめながら、トモコさんは厳しい言い方をした。
ガラス戸の向こうのナミさんは、周りのことなど何も目に入らない様子で、うつむき加減に、時折、口を動かしている。
いつの間にか雲は晴れ、太陽の光がこの真新しい店を照らす。白く輝く店内で、彼女の表情はそれに似つかわしくないものに思えた。
バス停に着いたのは、トモコさんの言った通り、ぴったり15分後だった。
太陽の光で、大分溶けはじめた雪が作る水溜りをよけながら、私は既に停車していたバスへと向かった。
行き先を確認して、がらんとした車内へ乗り込んだ。窓からこの小さな山あいの町の風景が見える。あの派手な緑のリュックを傍らに置いて、彼もここに座っただろうか。
まだ見ぬ梅の丘の風景が、私に焦るほどの期待感をもたらして、何故か私は、彼との距離を今まで考えもしなかったほど、身近に感じていた。
そのとき視界に、見覚えのある車が滑り込んできて、ショートヘアをさらさらと光に透けさせ、ナミさんが降り立った。窓越しに私を見つけると、笑顔で手を振る。驚いて私は、外へ出た。
「ごめんなさいね、きちんと挨拶もできなくて」
まるで駆け足で来たかのように、真っ赤な頬をして息をきらせながら、ナミさんは言った。
「いえ。こちらこそ、色々ありがとうございました。ケーキもご馳走になっちゃって」
ぺこりと頭を下げると、ナミさんは、これ、と手に持っていた小さな箱を手渡してきた。
「また、ケーキで嫌かもしれないけど…。もし良かったら、バスで食べて」
「わあ、ありがとうございます」
先ほどの甘いクリームの味が口中に広がって、ぺろりと唇をなめてしまいそうになった。どうしたって、ケーキの魅力には勝てない。
私の嬉しそうな表情に、負けないくらいの笑顔になりながら、ナミさんは言った。
「私ね、結局婚約者と別れることにしたの」
「え?」
「でも、なんだかそう決めたら、色々なことも、すっきりしちゃって。やっぱり、夢は捨てられないもの。ねえ、もしあなたが、あの緑のリュックの人に会ったら、それ伝えておいてくれる?ありがとうって言葉も」
私の戸惑いなど、吹き飛ばされそうなくらい、明るい笑顔でさばさばと言って、ナミさんは髪をかきあげた。
「ああ、暑い。やっぱりもうすぐ春なのね。あのあとちょっと駆けずり回っちゃったから、汗かいちゃったわ」
そう言って、ふふふ、と笑う。
「駆けずり回ったって、どういう…」
言いかけた私の耳に、時間ですよー、という運転手さんの声がかけられた。ナミさんはぽん、と私の背中を押すと、
「彼に、会えるといいね」
と言って、私が最初に見たままの、美しく光る瞳で微笑んだ。
会釈してバスに乗り込むと、窓からナミさんを見下ろした。彼女はにこにこと手を振っている。ふと甘い香りが鼻に届いて、私は自分のひざの上に乗せている、ケーキの中身が気になった。今度は、どんなケーキが入ってるんだろう。
わくわくしながら、そっと開くと、ふぁさっと柔らかいものが飛び出した。薄ピンク色と白色のケーキを包むように、箱の中にはたくさんの花びらが詰まっていた。
「あれ?この花びらって…」
はらりと手に落ちた感触に、どこかで知った覚えがある。はっとしてつまみあげると、それは、薄く太陽の光に透ける、桜の花びらだった。
「発車します」
車内アナウンスが聞こえ、慌てて私が窓の外を見ると、相変わらず笑顔のままのナミさんがそこにはいる。窓を開けると同時に、バスが動き出した。窓から顔を出して、ナミさんのほうへと声をかけようとした瞬間、開け放した窓から、風が吹き込んで、目の前にぱっと桜の花びらが舞った。
勢いよく舞いあがる季節外れの花びらに、車内の数少ない乗客が、歓声を上げた。
ひらひらと薄紅色の花びらが舞うその向こうで、ナミさんの笑顔は小さくなって、消えて行った。
おわり素晴らしい絵をわたなべじゅんさんがプレゼントしてくださいました。Thanks!!
comment
今回のお話を書くにあたって、全く同じ設定・伝説の内容で、
全く違う3つの話が出来てしまいました。
頭をうんうん抱えながら書いた中で、
最近一番思うことが近いものを選びました。
お母さんになった友達・店長になった友達、
それぞれの毎日を精一杯頑張るみんなに。Story & comment by みえ