窓に咲いた花

作・み え




 窓をどんと叩かれた音で、驚いて顔をあげると、ひとりの男性と目が合った。

 列車は発車寸前で、窓の外は屋根のないホームの端っこだ。どんよりと白くて重たい空からは、粉雪がはらはらと降り続いていて、先ほどまでそこに立っていた私の手は、手袋をしていたにもかかわらずまだひんやりと冷たい。あたたかい車輛に乗り込んで、コートを脱いで手をさすっていると、突然顔のすぐ横の窓が叩かれたのだった。

 黒い手袋に包まれた両手を必死に窓に押し当てて、その向こう側で彼は眉を寄せ、何かを訴えかけるような表情をしていた。どこか少年っぽさの残る若い男性の黒い瞳。

 雪が彼の黒い髪にも、灰色のコートの肩にもうっすら積もっていて、何か言おうと開きかけた唇にもはらりと舞い降り、やわらかくぶつかって落ちた。一瞬であったはずの、そんな場面でさえ、私は今でもくっきりと思い出すことができる。

 黒い手袋がもう一度どん、と窓を叩き、その拍子に彼の手首や腕を染めていた雪がぱっと散って、透明なガラスに白く貼りついた。

 電車が動き出しても、窓ガラスに残った雪はなかなか落ちなかった。冷たい風に耐えながら、必死でしがみつく白い氷の粒は、やがてぴしぴしと美しい結晶の形に開き、それはまるでたくさんの小さな花のようにも見えた。

 けれどもその不思議な花は、流れ行く景色と共にすぐに姿を消してしまった。私はそれをいつまでも眺めていた。

「……で、それが知らないひとなんだ?」

「そうなの。まったく、知らないひと。会ったこともないひと」

 言って、はあっと口から息を吐き出すと、煙のように白く揺れて空気を流れる。私はお気に入りの黄色いダッフルコートのポケットに両手をつっこんだまま、顔を仰向けて空からちらちらと舞い降りる雪を眺めた。数時間前から降ったりやんだりを繰り返す気まぐれな雪は、いつの間にか足元をうっすらと白く染めている。

 となりで、尾山くんがつられたように空を見上げている。暗い夜空に映える白い息が、彼の口元からもすうっと延びている。尾山くんは一瞬沈黙したあと、顔をこちらに向けた。

「ちょっと待てよ。見も知らない男が、わざわざ電車の窓を叩いて、追いすがるって?」

「追いすがる?追いすがって来てたわけじゃないと思うけど……」

「じゃあ、なんでそんなことを?」

 そう言われても困るなぁ、と思う。六年前、二十歳になった記念にと、それまで貯めていたバイト代をはたいて、私は一人旅に出かけた。その帰り際出会ったこの不思議な経験を話すのは、恋人では尾山くんで三人目だ。

 この話を聞いたひとはみんな、揃って尾山くんのような反応をする。『なんで?どうして?』でもそれはこっちが聞きたいくらいだ。なぜ、私にあんな表情を向けたのか。一体、彼は何者なのか。そして、何を言いたかったのか。

 この季節、雪がはらはらと舞い落ちるのを見ると、私はあの窓に貼りついた白い雪の花を思い出し、どこか胸の奥深くがざわざわと騒ぐ。もどかしいような切ないような気持ちに満たされて、頭に浮かぶのはきりっと冷たくて透き通った結晶の形。

「……でも、不思議なことに顔が思い出せないのよね」

 薄く雪化粧され、いつもと違う風景に変わった公園内をぐるりと見まわしながら、ぽつりと言うと、尾山くんは、え?と言った。

「だって、唇に雪がぶつかったこととか、訴えかけるような顔をしていたとか言ってたじゃないか」

「うん。雪の粒が唇にぶつかったことは覚えてるし、何か言いたそうな顔をしてたことも覚えてるんだけど、もっとこう、具体的に目や鼻の形を思い出そうとすると、ぼやぼや遠ざかっちゃうのよ。なんだか……記憶が、曖昧なの。そこだけ」

「顔の部分だけ?」

「そう。顔だけ」

 私たちはぶらぶらと真冬の公園を並んで歩きながら、その先に佇む灰色の屋根の駅へと向かっていた。尾山くんの住むアパートと駅とは、ちょうどこの公園をはさんで反対側にある。

 夕方、ちらちらと舞う粉雪に、はしゃいでいた子供たちも今はいない。だだっ広い公園を横切る人影は私たちだけだ。広場の真ん中で空を見上げると、顔にぴたぴたと雪がはりついて、それは冷たいというよりも痛かった。私は冬の冷たくてきりりとした空気を吸い込み、また、はあっと息を吐く。白い息はふわふわと漂い、夜の闇に溶け込んだ。

 ちらりと横を見ると、ぼんやりと視線を前方に向けた尾山くんの背の高い姿がある。腕に私の赤い傘をかけ、グレイのコートに黒いマフラーと黒い手袋。彼に出会ったとき、彼こそがあの窓を叩いた男性だと思った。

 はじめての一人旅で、最後に鮮烈な思い出となった不思議な男性の影は、その後六年間経っても私の中から消えていかなかった。

 あれ以来、出会う男性にはいつも、あの彼の姿を探してしまう。曖昧な記憶を頼りに、目の前で笑う男性のなかに、窓に手を打ちつけてきた『彼』の姿がないかどうか。

 だから今まで恋人としてつきあってきた彼らにも、最初は確かに『彼』を見つけたのだ。それは髪型が似ていたり背格好が似ていたり、そんな程度のことだったけれど、それでも私はいつだって、今目の前にいる恋人こそが、あの雪の日、電車の窓の向こうから何かを言おうとしていた『彼』だったと信じていた。

 けれどもやがて、恋人の中から『彼』の姿は消えてしまう。その違和感に気づいたとき、同時に私の心も彼らから離れてしまうのだった。

「あんたのは、恋じゃないよ。そんなの中学生の頃と同じ、ただ憧れてるだけじゃない」
 女友達はそう言って呆れる。子供じみた憧れだと、自分でも良く分かっていた。それでもいつの間にか胸に大きく陣取ってしまったあの不思議な彼を、私は探すことをやめられなかった。


 尾山くんはいつも私を見送るため、ホームまで一緒に来てくれる。私たちは屋根のない、ホームの端っこに立って電車を待っていた。

「冬って、季節の中で一番好き。特に雪が降ったら最高」

 口から絶え間無く吐き出される白い息を楽しみながら、私が言うと、

「うん。俺も、冬は好きだな」

 黒いマフラーに頬まで顔をうずめ、微笑んで尾山くんは言う。ゆるいくせのついた髪の上に、赤くなった耳の上に、雪がふさふさと載っている彼の横顔は、とてもあの男性に似ていると思う。

 尾山くんの中から、いつまでも『彼』が消えないでほしいと私は願った。

「泊まっていけばいいのに」

 最終電車がホームに滑り込んだとき、尾山くんはぼそりと言った。その拗ねたような言い方がおかしくて、私は笑ってしまう。

「でも明日の朝、自分の部屋から見える風景が、白く変わっているのが見たいの」

「俺の部屋でもいいじゃないか」

「……また、今度ね」

 なだめるように笑いながら言うと、私は尾山くんに手を振って、車輛に乗り込んだ。窓側に座ると、窓の縁には既にうっすらと白い氷の粒が積もっていた。

 窓の向こう側で、尾山くんは寒そうに足踏みしながら、ちらつく小雪の下、こちらをじっと見たまま佇んでいる。やがて電車のベルが鳴り、私はもう一度小さく手を振った。

 そのとき、黒い手袋が私の顔のすぐ横に迫った。そのまま窓をどん、と叩く。手首にうっすらと積もりかけていた小雪たちが、ぱっと透明なガラスに広がった。

 白い雪の散らばった窓の向こうで、彼は眉を寄せて必死に何かを訴えかける瞳をしていた。強い気持ちを伝えようとするかのような、何かを言いたそうな表情。ふいに六年前の、一人旅の思い出が私の頭にさあっとよみがえり、驚いて私は思わず立ち上がった。

 時間が止まったように、ゆっくりと景色が動いた。ベルはまだ鳴っていて、その間、窓ガラスには黒い手袋をした手が何度も打ちつけられる。黒い手が動くたび、繊細な白い氷の粒が腕から踊るように撥ねて、ぱらぱらと窓にぶつかった。暗い夜空から、その体をきらきらとひるがえして落ちてきた雪がひとひら、彼の唇に触れた。

 六年前の風景そのままだ。

 呆然としている私の目の前で、やわらかそうな唇がゆっくり動いた。何?なんて言ってるの?

 ……カ・サ

 尾山くんが、窓を叩いていた右手で自分の左手を指差した。必死な形相で振り上げたその手には、赤い傘が握られている。私のお気に入りの、鮮やかに染まった赤い傘。

 その意味に気づくと同時に、猛スピードで、私は乗降口に駆け寄った。

 今度こそ、降りなくちゃだめだ。

 長いベルが鳴り終えた瞬間、私は電車から外に飛び出した。

「だめじゃないか。傘、忘れちゃあ」

 鼻のあたまと耳たぶを真っ赤にした尾山くんが、私の傘を差し出して言う。思わず息切れする私の背後で、電車のドアは閉まった。

「これから明日にかけて、雪はもっと強く降るって天気予報でも言ってただろ。いくら雪が好きでもさすがに傘を差さないと」

 赤い傘を受けとって、尾山くんの顔をじっと見つめた。優しそうな黒い瞳と、少し丸い鼻にその下の唇。なんて魅力的な顔をしてるんだろう、と私は思った。尾山くんの顔がこんなに私の好みだったとは、今まで気づかなかった。

 そう思ったとたん、六年前、電車の窓の外に現れた雪をかぶった男性の姿が、尾山くんとみるみる重なって、私の中にしっとりと溶け込んだ。

 それはほうっと、ため息をつきたくなるような、素敵な瞬間だった。

 顔を上げると、彼の黒い髪は、いつの間にかうっすら白く積もった雪で冷たく凍って見える。

「そうね。傘、必要ね」

 微笑んで私はその赤い傘を広げると、彼のその寒そうな頭上にもかかげ、続けて言う。

「でも、今のが最終電車だったのに」

「あ、そういえば……。どうしよう?ウチに泊まっていく?」

 そう言って、赤い傘の下でいたずらっぽく笑った尾山くんの背中を、私はどんと叩いた。

 赤い傘のした、私たちは白い息を弾ませながら、舞い降りたばかりの雪の粒に足を沈ませ、もう一度、彼の部屋へと引き帰した。

 誰もいない公園の、白く広がった雪原にふたつの足跡をつけながら。


おわり

 





comment


「あ、この場面見たことある!」

ということが私にはよくあります。 

今年の冬はとても寒いです。

空気がとても冷たい夜、

電車のホームで思いついたお話に、

そんな一場面をくっつけて、書いてみました。

 

Story & comment by みえ





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