三日月の祝福

作・み え


 

 さらさらと頬を撫でて、春の夜風が私の横を柔らかく通り過ぎて行く。

 夜道をこうこうと照らす街灯が並ぶこの通りは、車の行き交う国道沿いから外れているためか、すぐ横を流れる細い川の水音が聞き取れるほど、静かで人通りも少なかった。

 買ったばかりのヒールのつま先がズキズキと痛む。足を運ぶたび、その痛みが伴ってるとは思えないような、カツカツとした小気味いい音が、暗い夜道に響いていた。

「痛いなぁ、もう」

 つま先の痛みのせいなのか、それともさっきから頭をぐるぐると駆け巡る、複雑に絡んだ糸くずの塊みたいなもののせいなのか、何度目かのため息を深くつくと、私は川べりの小さな木のベンチに腰掛けた。

 川沿いにはその季節になると、見事な淡いピンク色で辺りを染め上げる桜の木が並んでいる。地元では有名なこの桜たちも、今では若葉に彩られて、さわさわと流れる水面にぼんやりとその影を映していた。

 夜空を見上げると、若葉の向こうに、満天とは言わないまでも、ちらほらと星が白く瞬いているのが見えた。そして上向きの三日月が、外国童話のネコみたいな口の形になって、ニヤニヤとゆらゆらと、その白い星の合間に浮かんでいる。

 顔を空に向けて三日月を眺めていた私の目に、そのときふと、葉桜の枝の間に引っかかっている赤いものが飛び込んできた。不思議に思って立ち上がり、目を凝らすとどうやら風船らしい。赤い風船のヒモが枝に絡まって、半端な場所でゆらゆらと揺れていた。

 ベンチに登れば手が届きそうだ。私は辺りをうかがって、誰もいないことを確認するとベンチの上で背伸びして、その風船を取り上げた。

「……あれ?何かついてる」

 赤い風船のヒモの先には、小さな紙が付けられていた。タグのような、小さなカード。

『おめでとう!見つけたあなたには、幸運が訪れるでしょう!できれば、どこまで飛んだか知りたいので、連絡を。
   
// S県 K高校 2年3組 第15回桜まつり記念』

「へえ、S県からこんな所まで?となりの県じゃないの」

 距離にすると、どのくらい離れているのだろう。S県の端に行くとしても、車で3時間はかかる。その距離をこの赤い風船が飛んできたのだろうか。

『桜まつり』というものがどういうものか分からないけれど、おそらく学校のイベントか何かで、この風船を飛ばしたのかもしれない。

 青空に舞い上がった風船は、風の気まぐれでふわりふわりと揺られながら、ついにここに落ちてきたのだろうか。赤い風船が青空に漂う風景を頭に浮かべていると、ふいにそこに、見覚えのある景色が重なった。遠い空に吸い込まれるように飛んで行く風船。あれはいつ頃のことだったかな……。そうだ、高校の卒業式だった。

「千夏は短大、さやかは専門、私は就職。みんなばらばらになっちゃうけど、また落着いたら会おうね」

 卒業式が終わって最後の帰り道、高校時代ずっと仲の良かった3人組で駅までの道を歩いていると、ふいに昌子が言った。

「そうだね……。ほらもう、さやか、泣きやみなよ」

 卒業式が終わってずっとハンカチを握り締めたままのさやかに私が言うと、隣で彼女は真っ赤に張れ上がった目を上げて、えへへ、と笑った。

「千夏こそ元気ないよね。泣いてないけど」

 昌子が覗きこむような目で聞いてきた。私はそう?と笑顔で答える。

 けれども態度とは裏腹に、本当はこのとき私は泣きたい気持ちでいっぱいだったのだ。

 卒業が悲しいとか、寂しいとか、そんなことだけではない。そう、あのときからずっと、いつだって私は、人生の節目が近付くと、まるで出口の見えない迷路に迷い込んだみたいに、混乱して動揺して、自分の気持ちが糸くずのように絡まって、目の前を塞いでしまうのだ。

 短大への入学が決まっているのにも関わらず、毎日の生活ががらりと変わるその不安に、押しつぶされそうになって、私は卒業までの毎日を、もう覚えてないくらいの不安定な気持ちいっぱいで、過ごしていた。

「ねえ、何かさあ、記念に何かしない?」

 駅前までくると、昌子が明るく言った。

「そうだね。でも……、何する?」

「何か、最後の思い出に残るようなこと。この駅も最後なんだから」

「それじゃあ駅の柱にでも、落書きする?」

 不安な気持ちを胸の端へと押し除けるように、明るく笑って私が言うと、昌子はうーん、と首をかしげて、それから辺りを見回した。

「落書きよりも……あ、ねえ。あそこのスーパーで風船配ってるじゃない?あれもらってきて、空に放そうよ」

「え?でもあれって、子供しかもらえないんじゃないの?」

 昌子の提案にさやかが不安そうに言うと、大丈夫よ、と昌子は言う。

「最後なんだし、ちょっと聞いてみようよ」

 いたずらっぽい笑顔で言った昌子に、私も何か楽しいことがしたくなって、賛成した。

 弱気なさやかを引っ張るようにして私たちはスーパーまで行くと、その入り口で子供たちに配っていた風船を、頼み込んで3つもらい、近くの公園に走りこんだ。

「それじゃあ、せーの、で願い事をかけて、空に放そう!」

 昌子が言って、私たちは掛け声とともに、風船を空へと放ったのだった。

 赤と黄色と青の風船は、くるくると風に振り回されて、みるみるうちに青空へと吸い込まれて行った。

 どこまでもどこまでも天へと上ってゆく風船が、小さな点になって、見えなくなるまで、私たちは空を仰ぎつづけていた。

 

「あのときの願い事って、そういえばなんだったっけ」

 葉桜の下の川べりのベンチに座って、数年前の出来事を思い起こしていた私は、手に持った赤い風船をぽんぽんと指ではじきながら、そうつぶやいた。

 青空に舞い上がる風船を眺めながら、私たちは自分の願い事を言い合った。確かさやかは「彼氏ができますように」、昌子は「仕事がうまくいきますように」と言っていた。けれど私はなんと言っていたのか。少しも思い出すことが出来ない。

 全く違う毎日が始まることへの不安で、毎日を辛い気持ちで過ごしていた私に、あのとき何か、未来への思いを願うことができたのだろうか。

 ベンチから立ち上がって、私はまたぶらぶらと自分の家へ向かって歩き始める。

 結局、あの頃と今と、何も変わってないのよね……。

 右手に持った赤い風船には、白い文字で『Congratulation!』と書かれてある。まるであの頃の自分が放った風船が舞い降りたかのような皮肉さに、私はおかしくなりながら、もう一度空を見上げた。そこには、相変わらずニヤリと微笑んだ三日月が浮かんでいる。

「なによ……。また今日も、こうやって人生の重要な瞬間になると、足踏みして混乱する私を、馬鹿にしてるわけ?」

 悔しくなって空に向かって言ったとき、履きなれないヒールの靴が何かに当たって、私は転びそうになってしまった。

「きゃっ……とと……あ、スミマセン!」

 なんとか体勢を整えて振り返ると、そこにはグレーのスーツ姿の男性が、だらしなく足を投げ出して、桜の木に寄りかかるように座っていた。

 酔っ払いだろうか。絡まれないうちに、と足を早めようとしたとき、

「あれぇ?千夏ちゃんじゃない?」

 と、舌の回らないしゃべり方で、名前を呼ばれた。恐る恐る振り返ると、重そうに頭をもたげたその顔は、小・中学校と同級生だった、同じ地元に住む高梨くんだった。

「高梨くん?」

「うん。そうだよぉ、久しぶりだねえ」

 言いながら立ち上がろうとして、ふらりとよろめいた。慌てて駆け寄ると、酒臭い息で大丈夫だよぉ、と言う。手には幾分よれよれになった、けれども大きくて豪華な花束を握り締めていた。

 支えてあげながら、近くのベンチに座らせると、高梨くんは投げやりに手に持った花束を足元に放り投げ、ふう、と大きくため息をついた。

「大丈夫?家、すぐそこだったわよね?手を貸すから……」

「うーん、大丈夫。ちょっとねえ、もう少しここで、夜風に当たっていたいんだ」

 それからまた、ふう、と大きく息を吐いた。長めの髪はぼさぼさで、ネクタイもだらしなくゆるんでいる。バスケ部のキャプテンで、女子生徒にも人気のあった少年時代とはおよそかけ離れたその姿に、何か痛々しいものを感じて、私はその場から離れがたくなってしまった。仕方なく、私も彼の横に座って、同じように川を眺めた。

「千夏ちゃん、仕事帰り?」

「うん……。高梨くんも?確か、あの大きい企業の営業って聞いたけど」

 すると、高梨くんは顔をぐるりと空に向けて、あははは、と乾いた笑い声を上げた。

「大きい企業って、別にそんなもん、何の意味もないよ。あんな会社、社員のこと人間だなんて思っちゃいないしね。でも、合コンでは人気あるけどねえ」

 そう言って、また酒臭い息で笑い声を立てた。首をすくめて私は黙った。

「合コンで人気あって、女の子が寄ってきても、肝心なときはうまく行かないしさ……。あーあ、俺、何やってんだろ……」

 がっくりと首を落とすと、高梨くんはそのままじっとうなだれて、動かない。私はよれよれになって、足元に放り出された花束を手に取った。バラや胡蝶蘭や、色とりどりの花たちが、良い香りを放っている。きっと花屋さんで頼んだら、高価なものに違いない。

「私もちょっと、自分に嫌気がさして、うんざりしながら歩いてたところ。本当、こういうときってあるよね」

 脇に挟んでいた風船と花束を一緒に足元に置き直しながら言うと、高梨くんはがばりと顔を上げ、振り向いた。

「やっぱり?そういうことってあるよね。なんかさあ、もっとこう、自分の思い描いた通りに物事が進んでいかないと、俺、どうしていいのか分からなくなっちゃうんだよね。壁にぶつかったら、すぐに別の道を探せば助かるかもしれないのに、壁の前で頭がぐちゃぐちゃになって、動けなくなってさ」

 髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしりながら、高梨くんは言った。私は何度か頷いて、

「うん、分かる気がする。急に、こう、毎日続くと思っていた道に障害物が現れると、私もどうしていいか分からなくて、動けなくなっちゃう。辛いよね、そういうのって」

「そうなんだよね。聞いてくれる?俺さあ、今日……」

 身振り手振りを交えながら、彼は熱心に今日自分に起こった出来事を、話し始めた。数ヶ月前に合コンで知り合った女性のこと。さんざん彼女にアプローチして、つき合いはじめたとたんに、二股をかけられていたことが分かったこと。それでも自分のことが本気だから、彼とは別れると言う彼女を信じてきていたのに、本当は別れていなかったこと……。

 彼女の誕生日である今日、驚かそうと花束を用意して部屋の前で待っていたら、彼女が男と帰ってきた。高梨くんは、それから先ほどまで、駅前の居酒屋でさんざんお酒を飲んでいたらしい。

「あーあ、ほんっと、情けないよなあ。彼女とヤツを目の前にしたとたん、馬鹿みたいに体が凍りついちゃってさ。俺さ、前に彼女が二股かけてたって知ったとき、相手の男に一発言ってやろうって思ってて、でも彼女が止めるからやめたんだけど、実際今日相手を目の前にしたら、なんにも言葉が出てこなかったよ。もう、ただぽかんと部屋に入っていくふたりを見てただけ。彼女なんて、俺と目が合ったのに、ひとことも声をかけないんだぜ。はーあ、こんな花束まで買っちゃってさ」

 今夜はあちこち連れて行ってやろうと楽しみにしていたのに、と高梨くんは続けた。

 そうなんだ、と頷いたあと、私は言葉が出てこなかった。ため息を深くついてうつむいた彼は、しばらくそのままじっとしていた。

 ざわざわと頭の上の木が枝を騒がす音が聞こえてきた。風も大分冷たくなって、春の夜が更けてゆくことを感じる。ふいに、高梨くんは顔を上げると、

「うん、でもなんだか、ちょっとひとに話したらすっきりしたよ。ごめんね、久しぶりに会ったのに変な話しちゃってさ」

 ぼさぼさに乱れた髪をかきあげて、大分落着いた表情になって言う。

「ううん。気にしないで。まあ、早くそういう、彼女のことが分かって、良かったって思えば」

 考え考え私が言うと、彼は何度か頷いた。

「ありがとう。うん、俺、忘れっぽいから、大丈夫。また別のコ、見つけるよ。ただ、ちょっとまだすぐは立ち直れそうもないから、もうちょっとここで夜風に当たっていくよ。……あのさあ、それでこれ、なんだか見てるのも嫌だから、悪いけど嫌じゃなかったら、もらってくれない?」

 足元の豪華な花束を取り上げて、私に差し出しながら高梨くんは言った。一瞬迷ったものの、弱々しい彼のその微笑みに、私は頷いて受け取った。

「元気出してね。また、同窓会でもやろうよ」

「うん。ありがとう」

 赤い風船と花束を抱えて、私はベンチから立ち上がると、手を振る高梨くんに会釈しながら、桜並木を歩いて行った。

 歩く度に、胸に抱えた花束から、甘い香りが立ち昇って来る。

 本当は高梨くんの、その彼女に渡されるはずだった花たち。街灯にちらちらと照らされて、目にも鮮やかなその色を見ていると、高梨くんの切なさが漂ってくるようだ。

 目の前に突然現れた壁。でも、高梨くんと私とでは、壁の種類も全然違う。

 この花がもう彼女に渡されることがないように、高梨くんの続くと思っていた道は消えてしまった。

 それに比べて私は、道が消えたわけじゃない。ただ、道が変わるだけなのに。

 小さな視界でまわりが見えず、がむしゃらに目の前の壁を、どんどん手で叩いてる自分がなんだか急に、ちっぽけに思えた。

 葉桜の続く道を過ぎると、ぽっかりとした広場に出る。広くて大きな夜空には、ちらちらと瞬く白い星たちに囲まれて、三日月が微笑んでいる。

 先ほどまで生暖かかった春の風に、冷たさが混じって私の頬を通り過ぎて行く。かえって爽やかに感じるその風は、私の手に抱えられた花から良い匂いを漂わせ、赤い風船をふわふわと揺らして、春の夜空へと舞い上がって行った。

 その風に乗って、私の心を塞いでいた糸くずの絡まった大きな塊が、ぽろぽろくずれて飛んでゆくのを感じた。

 

「ただいま」

 玄関に入ると、奥から母が出てきた。

「どうしたの?遅いから、心配してたのよ……。あら、なに?そんなに抱え込んで。何かお祝いでもしてもらったの?」

 胸にかかえた豪華な花束と、私の肩の上で揺れる赤い風船。私はなんだかおかしくなって、笑顔になると、頷いた。

「そう。今日実はね、プロポーズされたのよ」

「えっ?正利さんに?」

「うん。そう。思いもしなかったから、色々馬鹿みたいに悩んじゃったんだけど……」

 驚く母親に説明しながら、私は昌子たちのことを思い出していた。そうだ、彼女たちも結婚式にはぜひ来てもらわなくちゃ。

 見えなくなったと思っていた壁の、その先の道が頭に浮かび、ふいにそれは先ほど歩いてきた川べりの道になった。

 微笑む三日月の下で、春の柔らかく爽やかな風が若葉の枝を揺らす並木道を、私はゆっくり歩いて行こうと思った。

 

おわり


 



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変わり映えのしない毎日よりも、
変わって行く、刺激のある毎日が大好きな私とは、
正反対の主人公の話を書いてみようと思いましたが、
書いているうちに、自分の中にも、 どこか、
こういう部分があるんだなあと、感じることができて、
不思議な気持ちになりました。


Story & comment by みえ

 

 

 


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