連載小説「旅色の空」第1回
夏みかんの木の下で
作・み え
坂道が急になだらかになったかと思ったら、道の両端から覆い被さるように続いていた林の木々が、ぽっかりと唐突に切れた。
思わず目を閉じる。頭上から降り注ぐ太陽の光はとてもまぶしい。目を慣らしながら空を振り仰ぐと、雲ひとつない青空が広がっていた。
「ああ、畑があったのかあ・・・。」
視線を落とすと、そこにはどこまでも続く緑の田園風景が広がっていた。バスを降りてから20分ほど歩き続けた道は、そのまままっすぐ畑の中を突っ切るようにして前へ延びている。緑の中にある一本の白い道は、なかなか絵になる光景だった。
とりあえず、私はその道を進むしかなかった。きょろきょろと周りの風景を楽しみながら歩く。辺りは見渡す限りの新緑が広がる山々。その足元に広がる、太陽の日差しをいっぱいに受けて、育っていく畑の緑。風になびいて、波のように揺れる木々。けれども、初夏の日差しを浴びて生き生きとしているそんな景色も、心をゆるませた瞬間、私の瞳に色彩を失って映りそうで、そのたびに首を振った。
道が突き当たりにさしかかった。目の前に、突然大きな影が現れて、思わず立ち止まり、見上げると、見事な枝ぶりの夏みかんの木だ。周りにある、どの木も遠慮しているかのように見えるほど、堂々と生い茂っている。
しばらくその木を眺めていたが、のどの乾きや全身から吹き出る汗を拭きたくて、私はこの木が作り出す広い木陰でひと休みしようと、かがみこんだ。
「あれ?なんだろ、これ・・・。」
小さな立て札のようなものが、幹の横にひっそりと立っている。私は近寄って行って、その立て札をのぞきこんだ。
「夏みかんの伝説」と、今にもはがれそうな墨色で書かれているが、そのほかの文字は朽ちかけ崩れ、ほとんど判別が出来ない。しかし根気よく見つめていると、もうひとつ、「夏みかんの精」という一文があることが分かった。
「夏みかんの精・・・・?」
夏みかんの伝説だの、夏みかんの精だの、また随分変わったものだ。立て札自体もかなりお粗末な作りだし、誰がこんな所に立てたんだろう。
まあ、こんな大きな目立つ木だったら、何かいわくがつくのも有りそうなものだけど・・・・・。
視線を外すと、私はよっこらしょと座り込んだ。
「ずいぶん遠くまで来たなあ・・・」
毎日、灰色や白いビルの間で生活していると、同じ日本なのにこんなにも色彩があふれている場所があることを、忘れそうになる。
空を仰ぐ。6月の初めならではの、どこまでも澄みきっている青。この季節、太陽の光は日に日に強くなり、気温も高くなってゆく。もう梅雨入りしたのかしないのか、この間までは崩れていた天気も、ここ3日間ほど快晴が続いていた。
気温は今日も高い。私はリュックから水筒を取り出すと、勢いよく飲んだ。それからハンカチを出して、熱くほてった肌の汗をぬぐう。
そんな肌を冷ましてくれるかのような、涼しい風に目を細めていると、妙に首筋が寂しく感じられた。ぼんやりと、伸ばしていた髪を切ったことを思い出した。
恋人が私の親友と一緒に現れたのは、5日前のことだった。二人そろって頭を下げ、何度も何度も謝られたあの夜から2日後、私は髪を切り荷物をまとめて、アパートを旅だった。
髪を切るということは、単純な理由ばかりではない。はっきり決めていた訳じゃないけれど、そろそろ結婚に向けてと、勝手に3ヶ月前から伸ばしていたのだ。今となってはお笑いだ。
旅立ったものの、どこへ行くかは決めていなかった。けれど、以前、彼と一緒に行く約束をしていた、南にだけは行きたくなかった。そして北へと歩を向けた。
「傷心旅行・・・。なんだか、情けない言葉・・・。」
なだらかなカーブを描く山の稜線を眺めながら、ひとりぼっちで、つぶやく。
会社へは、途中で辞表を送った。今ごろ、私に押しつけていた仕事をどうするかでもめているかもしれない。それとも、あの二人が一緒に居るのを見て、誰かこの気まずい理由に、気付く人がいるかもしれない。
ああ・・・もう、いやになっちゃった。私が生きてる意味って、なんなんだろう。どうせ仕事だって、雑用ばかりで、誰だってできるものだ。今まで精いっぱいやってきたことも全て、ばかばかしく思えてしまう。
ここまで来る電車の中でも、バスの中でも、度々考えたことがまた頭をよぎり始める。
・・・別に、私一人ぐらい、いなくたって世の中は動いてゆく。もしかしたら、その方がいい人だっているかもしれない。一体、自分が生きてゆくことの価値なんてあるのだろうか。
輪廻・・なんとかって、わりと信じてるし。死んで、もう一度新しい自分でやり直すっていう考えも、悪くないんじゃないかな・・・。あ、そうか。これがいわゆる自殺って考えなのかな。
再び、目の前の景色が色を無くしていく。先ほどよりそれはリアルで、心のどこかがきりりと痛んだ。あわてて私は目をつむった。
心から真剣にそんなこと思ってるわけじゃない。でもそうやってじっと考え込んでいると、必ずしも心の中にその気持ちがないわけでもないことに気づき、怖くなって私は首を2,3度振ると、そっと目を開いた。鮮やかな緑色が広がっていた。
「ああ、ほんと、嫌な気分!」
思い切りのびをしながら、立ち上がった。その拍子に手に何かがぶつかり、見上げると、夏みかんが枝の葉をざわざわとゆらして、ぶらさがっている。つま先立ちして手を延ばし、私はそれをもぎとってみた。
ばさりと大きな音をたてて、枝が上下に激しく揺れた。片手では持ちきれないほどの大きな実が手に残る。
太陽の光をいっぱい吸い込んだような、なんともあざやかな黄色がまぶしい。思わず目をそらしてしまった。
「あれ?」
私が来た道を、遠くからやってくる人影が見えた。
なぜだか慌てて横の木の影に隠れて見ると、私と同年輩ぐらいの、白いシャツを来た男性だ。
彼は、私と同じように、この威張ったような枝振りの木を眺めてから、例の立て札に見入っている。それからほっとため息をつき、
「はあ、やっと着いたー!!これが、伝説の夏みかんの木なのかあ・・・・。夏みかんの精か。会えるかなあ・・・。」
そう言って感心したように、また息をつく。
木の陰から私は彼の顔をまじまじと見つめてしまった。伝説の夏みかんの木?夏みかんの精に会えるかな、ですって?あの怪しげな立て札に書かれてあった、夏みかんの伝説のことなのだろうか。どうやら彼は、その内容を知ってるらしい。しかも、信じているみたいだ。
しばらくそのまま観察していたが、特にその後不審な行動を取る様子もない。私はなんとなく興味をそそられて、声をかけてみることにした。
「どうも、こんにちは・・・・・」
おそるおそる木の陰から身を出す。青年は、ここに先客がいたことに、驚いた様子で、びくっと振り返った。それからすぐ、独り言が聞かれたかと、少し恥ずかしさが混じった表情で微笑んで、こんにちは、と応えた。
「お一人ですか?」
「ええ。あなたも?」
「はい。僕は、傷心旅行なもので・・・・・」
言いながら、急に暗い表情になると、だるそうに腰を降ろす。
自分と似たようなこの雰囲気に親近感を覚えて、私も隣に座った。
「ああ・・・ここは綺麗な所ですねえ。昨日ふもとの町で会った人に、落ち込んでいるときは、ここに行くとよいと聞いて来たのですが、こうして来てみると、分かるような気がします。大分気分がよくなりますね。」
「さっき、夏みかんの精とか言ってたみたいですけど、それってその立て札にも書いてありますよね、判別しにくいですけど。なにか、この木にはあるんでしょうか?」
白いTシャツから伸びた腕はよく日に焼けていて黒い。その腕で、それも日に焼けたためなのか、少し茶色がかっている髪の毛をかきあげた。
「夏みかんの伝説っていうのがあるみたいです。昔、ここで徳の高いお坊さんが旅の途中、行き倒れになりかけた。そこに、夏みかんがひとつ落ちてきたので、食べたところ、みるみるうちに体力が回復した。それに感謝したお坊さんは、この木に念をふきこんだ。以来、ここでは旅人の疲れを癒すため、夏みかんの精が現れる・・・。っていう伝説があるそうです。」
「ふーん・・・。」
なんだか、どこかで聞いたことがあるような話だなあ。まあ、伝説なんてそんなもんよね。
「その伝説はともかく、ここは本当に綺麗な所ですね。」
彼はどこか空虚な瞳で遠くを見つめて、再び同じことを言う。私は頷いて、そうですね、と言った。
「・・・こういう所だったら、死んでも悔いはないなあ。」
突然の発言に、私はぎょっとして、横を向いた。
木陰にいるせいなのか、彼はこの雄大な周りの景色とはおよそかけ離れた顔色になっている。じっと一点を見つめたまま目線を動かさない。
その追いつめられた表情に、思わず私は息を飲んだ。
つい先ほど木を見上げてさわやかな顔をしていた、あの青年とは別人のような変わり様に、なんて反応すればよいか分からず、黙っていた。
「何を言い出したかと思ってますよね。見ず知らずの方に、突然申し訳ございません。こんなに気持ちのいい天気で、自然にあふれてる場所で、こんなこと言うなんて・・・。でも、いくら理性で分かっていても、確かに心の中に、そう思ってしまう自分がいるんです。・・・もし良ければ、少し聞いてもらえないでしょうか?」
少しとまどったが、私は結局うなづいた。自分も悩んでるのに、人の話を聞いてる場合なのだろうか。でもこの切羽詰まった青年の瞳を、無視することはできなかった。
青年はリュックサックの中から水筒を出すと、自分の気持ちを落ちつかせでもするかのように、中身を一口飲んだ。
「実は、僕失恋したんですよ。それも、とびきり大きいやつ。恋人は同じ会社の人で、もう3年も付き合っていて、そろそろ結婚も・・・と考えてたんですよね。その矢先、恋人が僕の友人・・・・しかも、親友を好きになってしまった、と言い出したんです。」
そこまで話して一息つき、また一口飲む。途中まで軽い相づちを打ちながら聞いてた私は、だんだん眉をひそめて驚きを隠せなくなった。
「そんなこと言われて、素直にきけますか?僕はもちろん、そんなこと簡単に承知できませんでした。そうしたら彼女、親友と現れて二人で謝るんです。『ごめんなさい。でも、どうしても忘れられないの。何度も考え直して、私もいっぱい悩んだのだけれど、だめだったんです。あなたとつき合えたこと、すごくいい思い出です。本当にごめんなさい。』って・・・。ぺこぺこ頭下げて、泣くんですよ。おまけに男のくせに、親友まで泣いてて・・・。泣きゃあいいってもんじゃないでしょう?一番泣きたいのは俺だ!って、心の中で叫んでましたよ。」
青年はその時のことを思いだしたようで、辛そうな表情をしながら遠くの山々を眺め、じっと黙った。
私は口をぽかんと開け、呆然としてしまった。だって、そんなことって、あるのだろうか。彼の言ったことはそのまま私の体験談になる。
この広い地球上で、自分とそっくり同じことを体験した人なんて、確かにたくさんいるかもしれない。だけど、同じ頃同じ体験をし、同じ行動に出た者同士が、こうして偶然出会う、なんてこともあるものだろうか。
急に青年はリュックを枕に仰向けに寝っ転がった。
「あなたは、この木の伝説、信じてます?僕は、わりと昔からそういう、伝説とかミステリー的なもの、好きなんです。しかもここは全然観光地でもない所だし、あまりでっちあげで作ったものじゃない気がしますよね。」
そうかなあ・・・。だって、どこかで聞いたことがありそうな言い伝えや、昔話とかがいろいろミックスされてるみたいに思えるけど。
そんな無信心の私とは反対に、じっと遠くを見つめたまま彼は続ける。
「行き倒れかあ・・・。もし、自分で命を絶とうとした場合でも、助けてくれるのかなあ・・・・。」
「えっ?」
また青年は自殺願望らしき言葉を口にした。見ると、草むらに寝転んだ彼の顔色は先ほどより一段と青くなり、虚ろな目をこっちに向けて、口元には薄笑いを浮かべている。
「どうせ、僕なんかいなくなったって、この広い世の中なんにも変わりゃしないんですよ。むしろ、彼女や親友にとってはいなくなった方が、ほっとするかもしれない。そうだと思いません?」
つくり笑顔の中の、そこだけは妙に真剣味を帯びた瞳を見た瞬間、私の目の前が、すべてモノトーンへと変化していった。体中が凍り付く。私はその恐ろしい錯覚を解こうと首を強く振った。けれどもさっきまで美しかった空の青色も、山の緑色も、灰色にしか見えない。あまりの恐怖に耐えきれず、すがりつくように私は青年の腕をつかむと、強引に上体を起こした。
「やめて!そんなこと、言わないで!言わないでよ!」
青年は、急に身近に顔をよせて、叫ぶ私にぎょっとした表情を見せた。恐怖のためか、私の口は勝手に言葉を吐き出した。
「なんてことを・・・・何を言ってるのよ。あなたの彼女は泣いてたんでしょ?何度も何度も謝ったんでしょ?違うの?」
体のなかから言葉が次々沸き出てくる。私は勢いのまま叫び続ける。
「許せ、なんて言わないし、思わない。だけど、親友まで泣いて、そんな彼らの気持ちを、彼らを、今あなたは完全に侮辱したのよ。以前は愛した恋人に、親友に、裏切られて辛いのは分かるわ。でもね、以前は愛した恋人が、親友が、あなたを裏切るのも同じくらい辛いのよ。だから、泣いたんでしょう?謝ったんでしょう?」
青年のためらいの浮かんだ表情が、私の瞳に映っている。その顔に、大好きだった恋人の笑顔が重なった。そう、私だって3年もつき合ってたんだ。いつも眼鏡の向こうの目が優しく微笑んでて、その目が一番好きだった。いろんな場所に行った。手をつないで、笑顔で、楽しかった。
入社してからずっと仲の良かった親友も続いて浮かぶ。上司の愚痴や、会社への不満、いっぱい話して、ストレス解消とばかりに一緒に出かけて、ショッピング。夜更けまで電話で話した。
そして、霧雨だったあの夜。玄関先に現れた二人は、泣いてたんだ。
「どうしようもないと分かっていても、そうすることしか、できなかったのよ。その人達はあなたを大切に思ってるからこそ、それが精いっぱいの報いだったのよ。それが・・・。」
そうか。ずっと頭を下げて、私に謝ってた。あの二人はそれしかできなかったのかもしれない。そう。二人とも、私にとっては大切な人たちだった。同じように、あの二人も私を、私の気持ちを大切に思ってくれてたからこそ、きちんと言いにきたんじゃないだろうか。ぼろぼろ、ぼろぼろみっともないくらいに泣いていた、二人。
私が死んだら、なんて・・・・・。
「なのに、あなたは自分が死んで、ほっとするかもしれない、ですって?そんなこと本気で思ってるの?」
あれ?と思った。口をついて最後にでた台詞は、さっき自分の思っていたことと、全然違うことじゃない。
驚いたように、青年はじっと眼を見開いて、私を見つめた。その青年の眼が、この私達を囲む鮮やかな色と似て、緑がかってるのに気付いた。
青年の肩越しに視線をうつすと、生き生きとした緑色が、果実の黄色が、空の青色が、ゆっくりとその鮮やかな色彩を取り戻していった。
遠く空で叫ぶ鳥たちの声が、素晴らしい新緑の山々に響いている。なんて綺麗なんだろう。なんて、この世は美しいんだろう。
あとで思えば、大袈裟だったかもしれない。でもこのとき確かに、私はこれらの自然に助けられたのだ。
口を開いて、そのまま思ったことを言葉にした。
「だいたい、まだこんなに若いのに、もう自分の生きる価値はないなんて思うこと自体、おかしいのよ。人間なんて生きていて、必要のない人なんていないのよ、きっと。何かしらどこかで誰かに必要とされてるのよ。今はいなくとも、この先絶対、誰かいるのよ。もしここであなたが消えたとしたら、その、未来にあなたを必要とする人の人生まで、変わっちゃうのよ。そんなの自分勝手すぎるわよ。私達はまだ若いんだもの。今、もう見切りをつけるには、早すぎるわ。」
最後の方は、自分に言っているようだった。
遠くの山の木々が揺れていた。ざざざ、と葉がこすれ合い、足元に見える畑の葉も波打つように揺れ始めた。草原を勢いよく滑る音や、枝が擦れ合う音がだんだん大きくなってゆくのに耳を澄ませていると、すぐ次の瞬間、私の髪を巻き起こし、頭上の夏みかんの木を騒がせた。
都会では決して感じることのできない、「風」。私は妙に納得した気持ちで、ああ、これなんだなあ、と思った。
今や平均年齢80歳台になった、人間の長い人生においては、私がこの世の終わりのように感じた出来事なんて、こういう「風」みたいに、一瞬で通り過ぎるものなんじゃないだろうか。
だけど、そんな「風」がなければ、進んで行けない。生き物に必要不可欠な空気を巡回させ、季節を運んでくる風が大切なように。
「そうだね。ありがとう。」
ずっと黙っていた青年が、突然言った。
「なんだか、元気になれたよ。ふっきれたっていうか・・・。本当に、ありがとう。」
ひたむきな笑顔で言われて、私はうろたえ、それから急に笑いがこみ上げて来た。とっさにこらえようとしたけど、口から少し漏れてしまって、そのまま糸口をひっぱられたかのように、笑いがとまらなくなってしまった。
初めはぽかんと、不思議そうに見ていた青年も、やがてつられたかのように声をあげて笑い出した。こんな風に、心から笑うというのは本当に久しぶりだった。
まったく、私ってなんて自分勝手なんだろう。彼に感謝されるなんて、自分のことは棚に上げて、大した説教をしてしまったものだ。
そう、一体なんだったんだろう。そっくり同じような経験・・・。一人で考えていた時は、理不尽でこれほど辛いことはないと思ってたのに・・・。
第3者に立つことによって、初めていろいろ別な見方があることを知った気がする。そして、考え方も変わった。
青年は、そんな私の想いに気づかず、しばらく一緒に声をあげて笑っていた。
「うーん、いい気分だなあ。本当に、ここはいいね。空気もおいしいし、風も気持ちいいし。景色は絶品だし・・・。いいね、いい所へ来たよ。」
立ち上がり、伸びをすると彼はうれしそうな表情で振り返った。その笑顔が周りの山の淡い緑よりも鮮やかで、私は自分の心にその鮮やかさが映り、あの霧雨
の夜から心を包んでいた灰色の雲が、青く晴れ渡ってゆくのを感じた。それは、素晴らしく気持ちのいいものだった。
青年は、真っ白なTシャツに包んだ身体を木陰から乗りだし、まぶしく照らす太陽のもとへ佇むと、じっと遠くを眺めた。
それから振り返り、この大きな伝説の木を見つめると、現れないものかなあ、とつぶやく。
私は本気で信じている彼を、ちょっとおかしく思って笑った。
そして私と同じ悩みを持った、この名前も知らない人と、この木の下で出会えた不思議な偶然が、あたたかさをもって心に刻み込まれてゆくのを感じた。
もう景色は色を失ったりしないだろう。でも、この旅にはまだ続きがある。思い切りこの澄んだ空気を吸い込み、深呼吸をした。大丈夫。先へ進める。
・・・・・さあ、旅立つとしますか。
リュックに手をかけ、ふと、その陰に隠れていた夏みかんが目についた。同時に、心の内でむくむくと茶目っ気が沸き起こった。
「それじゃ、私は行くわね。いろいろ、ありがとう。」
身体についた草をはらい、リュックを背負いながら、私は立ち上がった。
青年はあわてて自分もリュックを取りにきて、笑顔を向けた。
「どっちへ行くの?」
彼の笑顔に私も笑顔で返しながら聞いた。こんなに気持ちよく笑顔を作ることはもう2度とないと思っていた。道は、私達が来た、木から見ると正面の道以外に、左右にまっすぐ一本ずつ別れて出ている。私は右へ行くつもりだった。
「こっちへ、行こうと思ってるんだ。」
そう言って彼が指した方向は左だった。
なんとなく残念な気持ちになる。けれどもそれに反して、いたずら心はますます大きくなっていった。
「じゃあ反対方向ね」
私がそう言うと、彼もちょっと残念そうな表情を浮かべて、そうか、とつぶやいた。
それから、ちょっと照れた仕草で右手を差し出す。私はその手をしっかり握った。不思議な、恋でも友情でもない気持ちがわきあがった。
「本当に、ありがとう。君に会えて、よかった。もう会うこともないと思うけれど、君も元気で、気をつけて旅を続けて下さい。ありがとう。さようなら。」
その素直な優しさに、私はちょっとひるんだけれど、そっと左手に隠し持っていた夏みかんを差し出した。
「あなたも、お元気で。頑張って下さい。」
青年は何気なく手渡された夏みかんを、綺麗な色だね、とつぶやいて眺め、それから手を振って背中を見せ、左へと向かって行った。
その後ろ姿を見て、すぐに私は夏みかんの木の裏にある、一茂りの草むらに飛び込み、隠れた。
途中まで歩いて、青年はもう一度こちらを何気なく振り返り、あれ?とばかりに、立ちすくんだ。あわてて戻ってきて、自分の行った方向とは反対の右の道を、
背伸びして眺めている。
左右の道は畑ばかりで障害物がないので、遠くの曲がり角までは、お互い十分見渡せる。けれども、畑仕事を遠くでしているおばさんがいるだけで、私の姿はそこにはない。
青年は首をかしげながら夏みかんの木まで戻り、再びじっくりとこの偉大なばかりの枝振りを眺めた。
「もしかして、さっきの・・・」
つぶやきながら、手に持った夏みかんとを交互に見つめると、薄気味悪そうに首をすくめた直後、突然早歩きになって、左の道へと消えて行った。
しばらくして、私は青年の姿が見えないことを確認すると、声をあげて笑いながら、草むらから出た。ちょっと良心が痛むけれど、お茶目ないたずら。これでこそ、私本来の姿だ・・・なーんて、自分を言い訳する。それから私ももう一度、この大きな伝説の木を見上げた。
ぺこり、と伝説を悪用したことを、ちょっとだけ謝る気持ちでおじぎをし、自分の行くべき道である、右へと歩き始めた。
私が伝説の夏みかんの精なんて、ちょっと無理があったかしら。でも、信じてたみたいだし、やっぱり悪いことしたかなあ・・・。あの青年の無邪気な笑顔を思い出すと、心にチクリとトゲを感じた。
こうやって、昔の人も伝説を使ったいたずらをしたかもしれない。でもそうやって伝説はしっかりと、人から人へと伝わり、残っていくのじゃないだろうか。ふと、背中に何かが当たるのを感じた。リュックを降ろしたり、背負ったりする時、少し中身が動いたのだろうか。きちんと入れていたつもりだったが、ごつんごつんと、足を進めるたび、ぶつかる。
私は立ち止まると、中身を整理し直そうと、リュックを降ろした。そのとき、先ほど畑の真ん中で仕事をしていたおばさんが、なにやら大きなカゴをかかえて歩いて来るのが目に入った。おばさんは、道と畑の境目にある、簀の子のような物の上で作業を始めたようだ。
なんとなく見ていると、ふいに顔を上げたので、ばっちり目が合ってしまった。
「あ、どうも、こんにち・・・」
「あんた、さっき、なにやってたの?」
私が、何かひとことあいさつでもしようかと言いかけると、それにかぶせるようにして、おばさんは不可解な言葉を口にした。
何を言ってるんだろう?・・・あ、もしかして、さっきの見られてたのかな。
自分のいたずらがばれたのかと、ちょっとバツが悪くなって、私は言葉に詰まってしまった。
ほっかむりに、この暑さで真っ赤になった頬をしたおばさんは、今私が来た方を指さし、ちょっと不審そうに眉をしかめると、
「あの、夏みかんさんの下で、一人で、べちゃくちゃしゃべって・・・」
「・・・え?一人?」
意味がよく分からずにいる私を、おばさんは気味悪そうに眺め、再び大きなカゴをかかえると、急ぎ足で畑へと戻って行った。
私は、その場に立ち尽くし、伝説の夏みかんの木を振り返った。
遠くの山々は、なだらかな稜線を真っ青な空に浮かび上がらせている。そして強い風が吹くたび、新緑色の木々は揺れ、絨毯のように広がる畑を波打たせて、私のもとを通りぬけてゆく。
太陽の恵みをたっぷりと吸収した、このたくさんの緑たちのなかで、特にひときわぬきんでて、その枝振りを風になびかせている木がある。その夏みかんの木の向こう側には、今は影も形も見えない、自分と同じ悩みを持った真っ白なTシャツを着た青年が、元気に歩いて行った道がある。
今は、影も形も見えない・・・。
『昔、ここで徳の高いお坊さんが旅の途中、行き倒れになりかけた。そこに、夏みかんがひとつ落ちてきた・・・・・・・』
はっと、リュックのことを思い出した。中に手を入れて、背中にあたる部分に入っているものを取り出してみる。
そこには、この豊かな緑と初夏の日差しに育まれ、傷ひとつない、鮮やかな黄色をした夏みかんが、どうだという顔で輝いていた。
お わ り
この作品を読んで下さって、ありがとうございます。
何年か前の初夏、草原にぽつりと立つ木を見て、
この話を思いつきました。
Story & comment by みえ