連載小説「旅色の空」第2回

  龍の子の寄り道

作・み え




 さっきまで、のどかな海岸線と緑の山の風景が続いていたが、トンネルを越えたとたん、急に賑やかな景色に変わった。それと同時に、電車の中もにわかに騒がしくなる。

 窓の外にはいくつもの建物と、大きな看板が目立つ。どうやらこのあたりは、海に面した温泉街のようだ。賑やかといっても、私が今まで行った所よりずっと、こじんまりとして見えるのは山に囲まれているせいだろうか。どこか懐かしい、ほっと和ませる雰囲気だ。

 まもなく、ほったて小屋のような小さな古ぼけた駅に、電車が到着した。

 駅からも漂ってくる、その懐かしい旅情のせいか、意外にも人気があるようだ。随分たくさんの人たちが降りる。中年の団体や、家族連れなど、わいわいと荷物を抱えながら出口に殺到していった。そういえば、今日は土曜日だった。

 温泉客があらかた降りてしまっても、停車時間が長いのか、なかなか発車しない。ふとホームにある小さな自動販売機に目が止まり、私は駅に降り立った。

 晩夏の風は心地よく、海から流れてくる潮の香りをほのかに運ぶ。町を見下ろすように、少し小高い丘にあるこの駅からは、今日のように天気が良ければ、ずっと真っ青な海が見渡せてとても気分がいい。なるほど、隠れ里のような小さな温泉街のにぎわいもよくわかる気がする。鼻歌混じりに私はジュースを買おうと小銭を入れ、ボタンを押した。そして次の瞬間、悲劇が起きた。

「え?!なに?」

 何が起こったのか、突然缶の取り出し口に、とめどなくジュースの缶が落ちてきてあふれだし、ついにはホームに転がり始めたのだ。

 あわてて私は缶を拾い集めたが、その古いちっぽけな自動販売機は派手な音をだして、次々と缶を外に吐き出し続ける。あたふたとしてる間に、非情にもホームのベルが鳴り響いた。

「うそ、ちょっと待ってよぉ!!」

「どうかされましたかー!?」

 私の叫びにかぶさるように、ホームの向こうから、駅員が大声を出して走ってきた。その肩越しに、電車のドアが閉まるのが見えた。

 とっさに頭の中で考える。貴重品の入ったリュックは背負ってるが、着替え等が入ってるナイロン製のバッグは・・・?バッグは・・・座席の網棚の上じゃないの!

 しかし、小さな3両編成の列車は、ごとごとと体を揺らして走り去ってしまった。

 泣きそうな思いで振り返ると、頼りない背中を向けて、わりと若い駅員が缶をひとつひとつホームに並べている。その背中を見ると、無性に腹が立ってきて、「ちょっと!」ど怒鳴りつけるように言った。のんびりと振り返る仕草が、余計に苛立ちをつのらせる。

「その自動販売機のせいで、電車に乗れなかったじゃない。荷物、置いてあるのよ!」

「はあ・・・。そりゃどうも、すみません。これ片づけたら、すぐ電話しますから・・・。あ、それ、取って。」

 指さされた方を見ると、オレンジジュースの缶が線路に向かってゴロゴロと転がっている。慌てて私はそれを拾ったが、すぐその横をトマトジュースの缶が転がっていった。それも慌てて拾い上げる。ふと見ると、壊れた自動販売機の暴走は止まっておらず、先ほどより勢いは落ちたとはいえ、未だ缶を吐き出している。

「これもう古いからなぁ。まあ、全部出れば止まるでしょ」と、駅員は当然のことを言う。

 そののんきな話し方ににこれ以上怒る気力もなくなり、ため息をつくと私はそこにしゃがみこんで、年老いた自動販売機のストライキが終わるまでつき合った。



「良かったですね。バッグ、清掃の人が見つけて、取って置いてくれたそうです。ただ、今日はその駅まで行く電車、もうないんですよ。」

 小さな駅乗務員室で、受話器を置くなりにっこり笑って駅員は信じられないことを言う。

「え?ないって・・・?」

「そこの駅まで行く電車はねえ、日に数本しかないんですよ。でも、まだ向こうからこっちに来るのは一本だけあるから、それで持ってきてもらいますか?」

 ・・・なんてことだろう。技術の発展した日本にもまだこういうところって、あるんだ。私は呆然としたものの「そうして下さい」と言うしかなかった。まあこうなったのも何かの縁だろうし、どうせなら温泉にゆっくりつかろうと、私は開き直った。あとで荷物を届けてもらうことにして、とりあえず今夜の宿を探すべく、町に出る。

 駅前は道路が少し広くなった程度で、何もなかったが、しばらく歩くと急に賑わいのある一角に出た。左右に土産物屋が建ち並び、浴衣姿の観光客が手にカゴを持ってあちこち覗いて回っている。なんだか突然わくわくした気持ちになってきた。そういえば温泉なんて、久しぶりだ。湯上がりの湿った髪をまとめ上げた女性たちとすれ違うとき、漂ういい香り。嬉しそうに駆け回る子供や、それを笑顔で振り返る周りの人たち。

 そんな温泉街独特のぬくもりある笑顔につられて、なんだか自分もつい笑顔になってしまう。私は浴衣姿の人たちに混じって、ぶらぶらと土産物屋を散策しながら、温泉街の奥へと進んだ。

 しばらく行くと、立ち並ぶ土産物屋の間に「観光案内所」の看板が見えた。私はそこで、なんとか今夜一晩の宿を紹介してもらうと、さっそくその旅館『龍子温泉』に向かった。随分温泉街の奥まで来たなあ、と思った頃、その看板を発見した。

「うわ・・・迫力あるなぁ・・・。」

 木の看板が付いた門をくぐると、思わずつぶやいてしまった。全体的に古びて、黒くなった木の建物は、瓦屋根も窓枠でさえも歴史の重みのようなものを感じさせ、堂々とそびえ立っている。門から玄関まで続く置き石を、気圧されながら進んだ。

「ごめんくださーい・・・。」

 遠慮がちにガラス戸をカラカラと開けると、中はその外見を裏切らない、純日本家屋風だ。昔どこかの博物館で見た風景を思い出してしまう。

「はーい、いらっしゃいませー!」

 そこへ、その雰囲気に似つかわしくない明るい声がして、着物を着た女性が表れた。

 上品な顔立ちの女性だ。年齢は四十を越えてるかもしれない。だがその立ち居振る舞いから、年齢など関係ない美しさを感じた。多分、この人が女将さんなのだろう。

「あ、あの先ほど、案内所で紹介していただいたものなんですが・・・。」

「あ、はい、お待ちしておりました。さあ、どうぞ。」

 女将さんはスリッパを出すと、廊下を案内してくれた。すぐに、赤い絨毯が敷き詰められ、ソファが並べられたロビーへ出た。仲居さんが現れると、女将さんはにっこりと笑顔を向け、「ごゆっくり」と言って忙しそうに立ち去った。

「綺麗な方ですねぇ・・・。」

 思わず私がつぶやくと、仲居さんは、自慢げに頷いた。

「綺麗でしょう?この温泉街でもうちの女将さんが一番ですよ!伝説の温泉にぴったりな方ですよ。」

「伝説・・・・?」

「はい、ここの温泉には伝説があるんですよ。ほら、この絵見て下さい。」

 そう言って、仲居さんはよく磨かれた黒光りする廊下の途中で立ち止まり、天井近くの壁を指さした。見上げると、古そうな絵がかかっている。

「昔、龍の親子が南から北へと旅していました。その途中で龍の子が、美しく光る玉に気をとられ、思わず寄り道してしまったのです。気付くと親とはぐれてしまい、龍の子は何日も泣き続けました。その涙は土にしみこみ、やがてあふれ出しました。それがこの温泉だっていう話なんですよ。まあ、中でもこの旅館だけ『龍子』って名乗っているのは、ここにその光る玉があるからだそうなんですが・・・。」

「へえ・・・。そんな伝説があるんですか・・・。」

 あちこち色が消えかかったその絵には、うつむく龍の子とその下からあふれ出る水の絵が書かれているようだ。話し慣れてるのだろう、どこにでもある話でしょ、と言うと仲居さんはてきぱきと廊下を先へと進む。後につきながら、ふと感じた疑問を口にした。

「それで、その龍の子は親の元へと戻れたのでしょうか・・・?」

「へっ?・・・さあ、そういえば、どうだったかしら?まあ、古い昔話ですから・・・。あ、ここの部屋です。さ、どうぞ。」

 通された部屋はなかなかひとりで泊まるには立派だった。仲居さんは簡単に夕飯の説明と、この辺の温泉の説明などをすると、忙しそうに出て行った。ここの温泉街の宿泊者は、どの温泉にも、どこの旅館の浴場でも入れるらしい。浴衣を着てカゴを持ってあちこち回るのは、そういった特色のせいなんだろう。夕飯までにはまだ2時間ほどある。私はさっそく浴衣を着ると、うきうきした気持ちで外へ出た。

 八月最後の暑い日差しは大分おさまりかかっていて、この小さな町を囲むような緑の山からはヒグラシの声が風に乗って届いた。人通りはさっきよりも多くなって、その旅館特有の浴衣を着た人たちが歩き回っている。私はいくつかの温泉の中でも、海が見えるという露天風呂をまず最初に目指して歩いた。

 ちょっとした丘にある旅館で、案内された露天風呂は、遠く海が見渡せる最高の景色だった。まだ夏の太陽はやっと傾きかけた頃で、海にまぶしい光を反射させている。暑い空気の中で、熱い湯につかる・・・。夏の温泉っていうのもいいものなんだなぁ、と晩夏の海の景色をぼんやりと眺めた。

 そういえば、露天風呂にこんな昼間から入るのも初めてだ。最後に入ったのは・・・今年の二月、雪の露天風呂だったな・・・。突然頭のなかに、真っ黒な空から無数に落ちてくる雪が見えた。熱い温泉にひらひらと舞い降りる雪は、すぐに溶けてしまう。「なんだか不思議だね」横からそう言った声。それは・・・。

 慌てて私は頭を振ると、湯から出た。あんなに暑かった空気が一瞬ひんやり感じる。その感覚がなくならない内にと自分に言い聞かせながら、急いで更衣室へと向かった。

 露天風呂を出ると、先ほどより日は暮れかけていた。お盆を過ぎて、急に日が短くなってきたようだ。朝方と夕暮れの風も随分心地良くなった。

 次にと決めていた温泉とは逆の方向へ、私は早歩きで進んだ。頭の中では必死にあるものをうち消そうとして、同じ言葉を繰り返していた。「思い出すな、思い出すな」と。

 ふと気付くと『龍子温泉』の厳めしい門の前にいた。なんとなくほっとした気持ちで、私は玄関を入ると部屋へ戻った。つい先ほど通されたばかりなのに、一度自分の部屋と思ってしまうと、本当にくつろいだ気持ちになれるのは不思議だ。窓の近くに置かれた椅子に腰掛けて、緑の山々をぼんやりと眺めた。

「あの、すみません」

 ドアをノックする音がして気付くと、いつの間にかうとうとと寝てしまったらしい。時計を見ると三十分ほど経っていた。夕飯だろうか・・・そう思いながらドアを開けると、中学生ぐらいの男の子が立っている。

「あの、荷物が着いたので、フロントで受け取って下さい。」

「ああ、はい。どうも、ありがとうございます。」

 白いシャツを着た少年は、ぺこりと頭を下げると廊下を走っていった。あんなに若い子が働いてるのかな・・・?誰かの子供かしら?

 フロントで例の茶色いナイロンバックを受け取り、中身の整理をする。明日の着替えやら洗面用具やら出しながら、ふと先ほど思い出してしまった、雪の露天風呂が頭をよぎる。いい加減、消えてほしいのに・・・。何故こうも思い出してしまうのだろう。

 恋人と親友が二人で私に謝りに来た。その事実は、私の心に絶望的な悲しさをもたらした。恋人に、親友に裏切られた思い。私はその思いに耐えきれず、この世から逃げることまで考えた。会社に途中で辞表を出し、そのまま旅を続けていた。

 私は早く立ち直りたいのだ。そのためには、一刻も早く忘れることだと思っていた。ふいに思い出す彼の笑顔、彼の声・・・。心に残る思い出も、すべて消し去らなければいけない。けれども先ほどのように、ほんのちょっとしたきっかけですぐに思い起こしてしまうほど、私の心に巣くってしまった彼の姿を忘れることは、至難の技だ。忘れようと思えば思うほど、意識してしまう。

 忘れたいと思ったら簡単に消えてくれればいいのに・・・。人間の心って複雑なものだ。私はため息をつくと、頭を二,三回振った。

 夕飯はこの地の名物料理が並んだ、申し分ないものだった。満足した私はもう一度気を取り直して温泉につかろうと、今度はこの宿の浴場へと向かった。

 今日混んでいるというのは本当なのだろう。大浴場は随分人が多く入っており、楽しみにしていた露天風呂のほうも、満員のようだ。

 一晩中やってるというし、あとでゆっくりつかりにこようと、私はさながらカラスの行水の早さでさっさと風呂をあとにした。



 はっと目が覚めた。こうこうと光る蛍光灯がまぶしく、思わず目を手で覆い隠した。すると指が水滴に触れる。いやだ、夢見て泣くなんて・・・。けれども頭の中にはその悲しい夢の余韻が残っているようで、涙は簡単に止まってはくれない。思い切り頭を降りながら起き上がって、時計を見ると針は三時を指していた。ああ、そっか。あとでお風呂に入ろうと思って、本を読んでいる内に寝ちゃったんだ・・・。

 ぐいっと涙を拭うと、電気を消してふとんにもぐりこんだ。しかし、目を閉じるとすぐにさっきまで見ていた夢の情景が浮かんでくる。うなだれた彼の顔。隣に並んだ、親友の泣き顔。ああ、頭から消し去りたい。

「そうだ、せっかくだから、お風呂入ってこよう!」

 私はわざと元気づけるように声に出して言うと、すぐにふとんから出て支度をし、ひっそりと静まり返った廊下へ飛び出すように部屋を出た。

 一晩中やってると言うものの、さすがにこんな夜中は誰も入ってないだろう。そう思いながら廊下を進むと、浴場の手前、渡り廊下になっていて中庭が見える場所に、白い影が見えた。一瞬ヒヤリとしたが、よく見ると昼間荷物のことを知らせてくれた少年のようだ。

「こんな夜中になにしてるの?」

 夜の庭に突然響いた声に、少年は驚いた表情で振り返った。だが、すぐに笑顔になると、

「あ、こんばんは。草木に水撒きをしているのです。・・・これからお風呂ですか?」

 と言いながら、手に持っていたらしいホースを置いて、こちらに寄ってきた。

「ええ。それにしても、随分遅い時間に・・・・仕事なの?」

「そうです。温泉が一晩中やってるから、いろいろ見回ったりすることもあるのです。交代制でやってます。草木に水を撒いたり・・・。あと、伝説の『玉』を磨くことも僕の仕事です。」

 無邪気な笑顔で言う。

 伝説の玉・・・?それは、あの龍の子が見つけて寄り道したという、光る『玉』のことだろうか。私が口を開くよりさきに、少年はそういえば、と言った。

「お風呂なら、今ひとり入ってらっしゃいますが・・・こんな時間まで起きてたのですか?」

「うーん、ちょっと嫌な夢みて、目が覚めちゃったの。」

「嫌な夢?」

 少し首をかしげて言う彼に、私は曖昧な笑顔を返した。それにしても、こんな時間でも入る人っているんだ・・・。ひとりでゆっくり入りたかったんだけど・・・。

「入った方がいいですよ。」

 その迷いを見透かしたかのような言葉に驚いて、私は少年の方を振り返った。

「え?」

「そういう嫌な夢は、人に話したほうがいいって言うじゃないですか。ゆっくり露天風呂につかって、今、入ってる人に話してみたらどうですか?」

 にっこり笑うと、少年は促すように浴場に目をやった。その純粋な笑顔になんとなく気圧された気持ちで私は頷くと、思わず浴場へ向かってしまった。

 更衣室の、棚に並んだカゴの一つに荷物があるのを見ながら浴場へ入ると、露天風呂の方から水の音がする。そっとガラス戸を開けると、白い湯気の向こうで、湯に胸までつかっていた女性がはっと振り返った。

「・・・あら。こんばんは。」

「あ、女将さん!」

 振り返った瞬間、慌てて手ぬぐいで頬の辺りを拭ったのを私は見逃さなかった。女将さんはすぐに笑顔を作って挨拶すると、こんな夜中に?と言って微笑む。

「女将さんこそ・・・。もしかして、いつもこの時間に入るのですか?」

「そうですねぇ・・・。いろいろ雑用に追われてると、これぐらいの時間になっちゃうことも度々あるんですよ。本当は、旅館の者はここには入っちゃいけないんですけど、こんな夜中だとあまりお客様もいないですから・・・。」

 言いながら女将さんは、私のために少し移動してくれた。並んで湯につかりながら、私はほうっとため息を付いた。静かな夜の暗闇からは、もう虫の音が聞こえてくる。

「虫が・・・。もう秋なんですね。」

「そうねえ・・・。こうやって季節のめぐりを感じると、時間ってとっても早く経つものだなあって思いません?じっとしてても、自分は何も変わってなくても、時間だけ先に進んでいく・・・。不思議なものね。」

 熱い湯の上を滑るように風が吹きぬけた。夜に目立つ白い湯気が、ゆるやかに踊る。

「もしかして、眠れないのかしら?」

 湯気の向こうの微笑みを見ながら、先ほどの少年の言葉が思い出された。嫌な夢は話した方がいい・・・、それは本当なのだろうか。

 柔らかい女将さんの声と、その表情に私は自分も柔らかくくだけていくような気持ちになって、口を開いた。

「すごく、嫌な夢を見てしまって・・・。」

「嫌な夢?嫌な夢はひとに話した方がいいんですよ。」

 女将さんも同じことを言う。

「・・・女将さん、忘れたくて忘れたくてしょうがないことは、どうすれば忘れられるのでしょう?時間は、それを持っていってはくれないのでしょうか。」

 女将さんは、さらりと湯から上がり、風呂の縁の大岩に腰掛けた。

「・・・そうですね。人間の記憶は、いつか長い長い時間をかけて、持って行かれるのかもしれません。でも完全に消えてしまう訳ではないと思うし・・・。うーん、そうね・・・。忘れたいことは、忘れようと思わない方がいいのかもしれませんね。」

 露天風呂を取り囲むように茂っている木々がかすかにざわめいた。私は自分もその熱い湯から体を上げ、女将さんの横に並んで座った。夜の風がひんやりと肌に気持ちいい。

 忘れたいことは、忘れようと思わない方がいい・・・女将さんの言葉は頭の中で繰り返される。私はその意味を一句一句、かみ砕くように考えた。

「・・・難しいですね・・・。私に、できるかな?」

 思わずつぶやいてしまった私の顔をのぞきこむようにすると、女将さんは笑顔を見せた。

「私もね、あったんです。忘れたいこと。」

「え?」

 振り返ると、優しい笑顔の横顔を見せたままで、続ける。

「・・・息子がいたんです。その息子に・・・自分の子供に、取り返しのつかない傷をつけてしまったんです。旅館の一人息子、そんな肩書きをあんな小さい子に押しつけて、人生を選ばせてあげようとしなかった、全ては私が悪いのです。」 

 湯を手ですくうと、女将さんは自分の肩にぱしゃりとかけた。それから、ゆっくりとした仕草でもう一度お湯に体を沈めた。

「・・・息子さんは・・?」

 前方の湯気に揺れる暗闇を見つめたまま、女将さんは軽く頭を振る。

「忘れたい、忘れたいって思いました。そりゃもう、必死に。でもそう思いながら毎日過ごしても、少しも忘れられなかったのです。後悔や、悲しみが増すばかりで・・・。それで思ったんです。忘れたいと言って忘れられないのなら、いっそのこと忘れたいと思うことをやめようって。思い出したら、思い切りその想い出にひたってしまおうって。そうしたら、随分楽になったんです。」

 一気に話すと、女将さんはふうと言ってため息をついた。それから、ふいに立ち上がると、しなやかに湯の中を進み、反対側の縁で止まって、手招きをする。近寄ると、女将さんは明るい笑顔になって、言った。

「ここの温泉の伝説は、聞きました?」

「あ、はい。龍の子の・・・ですよね?」

「ええ。それで、これが龍の子が寄り道した原因の『玉』だと言われてます。」

「え?!これが?」

 女将さんが手で指しているものを見て思わず言ってしまった。だってどこから見てもただの『岩』だ。形だってぼこぼこしてるし、とても『玉』とは思えない。

「これが、伝説の『玉』ですか・・・。」

「伝説なんて、そんなものなんでしょう。ただ、この話には続きがあるのです。結局親の元へ帰れなかった龍の子は、近くにある湖に沈んで、そこの主になったと言われています。必死に子供を探し、この『玉』までたどりついてそのことを聞いた母龍は泣き続け、やがてこの『玉』に涙を封じ込めたと言うことです。それ以来、この『玉』に触れて悲しみを封じておけば、満月の夜、『玉』が光り輝いて全ての涙を空に飛ばしてくれる・・・。そういう言い伝えがあるのです。」

 光る玉・・・。なんとなく暗い空を見上げた。月は明るく輝いているが、満月ではない。あと一、二日で満月になるのだろう。

「龍の母親はきっと、子供をなくした悲しみから、立ち直ることができたのでしょう。この光る玉の言い伝えは、実はあまり知られてないのですが、あさっては満月。旅先の余興にでも、やってみたらどうでしょうか?」

 女将さんは言うと、そのまま縁から外に上がり、お先にと言って浴室に戻っていった。

 私は少し乾いた体をもう一度ゆっくりとお湯に沈めて、その『玉』ならぬ『岩』を眺めた。女将さんも涙をこの『玉』に封じ込めたのだろうか・・・。私が露天風呂に入ってきたとき、慌てて頬を拭ったあの女将さんの表情が思い出された。

 夏の夜明けは早い。心なしか、先ほどよりも夜の闇は薄れてきたように感じた。虫の音はやがて鳥のさえずりに変わり、黒い影は青々とした木々に変わるのだろうか。

 私はゆっくりと岩に近づくと、そっと手を触れてみた。瞬間、不審に思って手元に目を凝らしたものの、ほんのりとした月明かりだけではよく分からなかった。私はそのまま目を閉じて、先ほどの夢の内容を想い描いた。

 目を開けると、湯気にかすむ白い闇の向こうが、ほんのりと明るくなっていた。



 翌朝は、随分寝坊してしまった。慌てて見繕いし、広間にたどり着くと以外にも大勢の客が残っている。仲居さんに案内されて、一番窓側の膳についた。綺麗に手入れされた中庭が見渡せる。

 体中が喜ぶような朝食を食べ、食後のお茶を飲みながら、何気なく部屋中を見渡した。家族連れ、団体客、アベック・・・。みんなのんびりしているのだろう、浴衣姿のまま食事をとっている人もいる。忙しそうに立ち働く仲居さん・・・あれ?

「昨晩は、よくお休みになられました?」

 昨日の仲居さんが寄ってきて、熱いお茶をもう一杯ついでくれた。私はうなづきながら、

「あの、男の子、いたでしょう?ここで働いてる子。あの子ここの仲居さんのお子さんか何かなんでしょうか?」

「え?男の子・・・?ここでは男の子なんて、働いてませんけど?」

 不審げな表情で首をかしげる。私はなんとなく自分も不審な気持ちになりながら、昨日、荷物が来たと知らせてくれたことを話した。仲居さんは、ますます眉をしかめる。

「いやだわ。お客さん、変なこと言わないで下さい。ここには仲居の子供も来てないし、もしかしたら、お客さんの中の誰かが悪ふざけしたんじゃないですか?」

「え・・・。でも・・・。」

 悪ふざけで、夜中に水を撒いたりなんて、するのだろうか。

「そうですよ。お客さんのいたずらですよ。だって、男の子って・・・。女将さんの息子さんなわけはないし・・・。」

 言ってから、はっとしたように、仲居さんは口を押さえた。私はその行動に昨日の女将さんの話を思い出した。やっぱり・・・そうなのだろうか。

「女将さんの息子さんって・・・」

「あっ、ちょ、ちょっと、すみません。もう片づけないと!」

「えっ。ちょっと待って下さい。もしかして、息子さんって、もう・・・?」

 立ち上がりかけた仲居さんの腕を強引に掴んで聞くと、仲居さんは悲しそうな表情で二,三回頷いて、お盆を片手に部屋を出ていった。

 その姿を目で追いながら、庭で水撒きをしていた明るい少年の笑顔と、見たことのない女将さんの息子が重なった。いるはずのない少年。彼はなんの為にここに姿を現したのだろうか・・・。

「私もね、あったんです。忘れたいこと。」

 美しくも悲しい微笑みを浮かべた、女将さんの横顔が思い出された。



「どうも、いろいろとお世話になりました。」

「いいえー。またお近くにお寄りの際は、是非どうぞ!」

 玄関先まで見送ってくれた仲居さんは、先ほどとは打って変わった明るい声でそう言うと下駄箱から靴を出してくれる。そのとき、ぱたぱたと軽快な足音が聞こえてきた。

「あらあら。ゆっくりとご挨拶もできませんで。」

 紅葉色の着物に身を包んだ女将さんは、最初に会ったときと変わらない爽やかな笑顔で、そう言った。

「本当に、いろいろありがとうございました。」

「いいえ。こちらこそ、大したお構いもできませんで・・・。温泉はいかがでした?」

 その言い方にちょっと茶目っ気があるようで、私は笑顔になると、

「そうですね。最高でした。ここのお風呂は絶対忘れません!」

「是非また、いらして下さいね。」

「はい。女将さんも、頑張って下さいね!」

 ちょっと不思議そうに女将さんは目を見開き、それから素晴らしい笑顔になって、頭を下げた。

 私は元気良くガラス戸を開け、女将さんと仲居さんたちにもう一度挨拶をすると、外へ出た。この博物館のような旅館ともお別れか・・・。少し寂しい気持ちになる。

 ふと、門の前に立つ青年に気が付いた。誰だろう・・・?こんな早くからお客さんなのかな。ちょうど門の辺りですれ違い、そのまま中に入っていく。なんとなく気になって私はそのスーツ姿の青年を目で追った。彼はガラス戸の前で一瞬止まり、ちょっと考えるそぶりをしてから戸を開け、中へ声をかけた。「ただいま」と彼は言った。

 この旅館の人なのかな。私はそれ以上気にとめず、「龍子温泉」を後にした。

 ホームにあがると、気持ちのいい潮風が体のそばを通り抜けた。足下には、小さな温泉街が広がる。今日もなんていい天気だろう。

 例の自動販売機には、故障中の貼り紙がついている。私にとってはこの自動販売機が『光る玉』だったな・・・。でも、龍の子のように、寄り道をしたことは、悪いことじゃなかった。

 そう思いながら、自動販売機を眺めていると、貼り紙の横に、簡易な段ボール箱がとり付けられ、何枚もの藁半紙が入ってるのが目についた。昨日は気付かなかったらしい。中の一枚をとって見てみると、どうやら温泉街の説明のようだ。伝説のことも載っている。

 その説明書を熱心に読んでいると、静かなホームに騒がしい足音を響かせて、向こうから駅員が走ってくるのが見えた。

「ほんとに、どうもすみませんでした。これ、良かったら・・・。」

 昨日の若い駅員だ。冷えたオレンジジュースの缶を差し出してきた。思わず笑いながら、ありがとうございます、と言って受け取った。

「伝説の温泉、どうでした?」

「ええ、良かったですよ。一泊できて良かったです。この自動販売機のおかげですね。」

「そうですかあ。いや、僕もここの町出身でして。そう言われると、嬉しいですねえ!」

 若い駅員は本当に嬉しそうな笑顔を見せる。

「『龍子温泉』、良かったでしょう?」

「ええ。あの、女将さんがとても優しくて、綺麗で・・・。」

 駅員はうっとりとした目つきで、何度も頷く。彼もファンなのだろうか。

「あの女将さんは、すごくいいですよね・・・。ただ、息子がなぁ・・・。」

「ええ、お気の毒ですね・・・。おいくつで、亡くなられたのでしょうか?」

「へ?」

 こっちがびっくりするほどの大声で言って、駅員はぽかんと私の顔を見つめる。

「亡くなったって・・・。誰が?」

「え?だから、その、女将さんの息子さん・・・。」

 その態度に不審なものを感じながら私が言うと、駅員は呆れた顔になって、

「そんな、縁起でもないなあ。息子は、立派に東京で生きてますよ!大学卒業と同時に家出しただけで・・・。僕、同い年なんです。たまに連絡来ますよ。」

 え?そうなの?今度は私がぽかんとする番だった。

「だって、女将さんが・・・」

 そう言うと、ふうっとため息をついて顔を横に振った。

「女将さんは、自分に責任を感じてるんですよ。跡取りになるべく、将来を押しつけたって・・・。でも、あいつもそのうち帰ってくるはずですよ。この間、そんなこと言ってましたから。」

 そのとき改札口のほうから名前を呼ばれ、駅員はぺこりと頭を下げると、行ってしまった。ぼんやりと見送りながら、私は頭を整理した。どうやら、とんでもない勘違いをしていたらしい。と、突然、先ほど門で出会った青年が思い浮かんだ。もしかしたら、彼は・・・?

 なんとなく心にあたたかいものが満ちてきて、私は遠い海を見つめながら、今頃きっと喜びの再会を果たしているであろう、「龍子温泉」の親子を思い、女将さんの幸せを祈った。

 でも、それじゃああの少年は一体・・・?

 白いシャツを来た無邪気な笑顔の少年が浮かぶ。私は首をかしげてぼんやりと海を見つめた。

 突然、にぎやかな声をあげて、手をつないだアベックがホームのベンチで笑っている。以前、私も二人で旅行をした。二人で見た雪の露天風呂の情景と、彼の優しい瞳が思い出される。目を閉じて、私はそれらの思い出が頭の中を巡るままにした。やがて悲しみが押し寄せて来た頃、風に運ばれた潮の香りに気付いて目を開けると、きらきらと輝く青い海が見えた。ああ、大丈夫。そうなんだ。こうやって、少しずつ悲しみは薄れていく。だって今私は、こんなに明るく美しい風景の中にいる。あの日の雨の夜じゃない。

「忘れたいことは、忘れようと思わない方がいいのかもしれませんね。」女将さんのその言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。記憶を消すことなんてできないのだ。だから、今は悲しみが薄れることを待つしかない。・・・いいえ、悲しみはきっとそのうち、消えるだろう。あの『玉』が飛ばしてくれるのを期待して。

 ふいに、夜中の露天風呂での出来事が思い出された。吸い込んだ悲しみを満月の晩、空に飛ばしてくれると言う伝説の光る『玉』・・・。どう見ても、ごつごつしたただの岩。伝説なんて、と少しも信じないでその岩に触れた時、私の気持ちはあっさり変わってしまったのだ。不思議だった。あの感触・・・。あれは、どう考えても、岩ではなかった。あのつるつるとした、よく磨かれた大理石のような感触。あれは、確かに『玉』だったのだ。

 蝉の鳴き声と、風にそよぐ木々のざわめきの中、突然けたたましい音がホームに響きわたった。直後に、潮風を舞い上げて、3両編成の小さな電車がホームに滑り込んできた。

「さ、行くか。」

 足下の茶色いバッグを手に取ると、私は電車に乗り込んだ。そのとき、声をかけられた気がして振り返ると、ホームに降りた数人の客に混じって、見覚えのある笑顔がちらりと見えた気がした。

 先ほど読んだ藁半紙をポケットから出して、私は急いでもう一度「伝説」の部分を読んだ。それは、ほとんど宿で仲居さんと女将さんに聞いたことと一緒だったのだが、ただ一カ所、気になる記述があったのだ。

 『玉』の話を聞いた龍の子は、満月が近くなると、母の悲しみを綺麗に消し去るために、自らその『玉』を磨いたという・・・。

「あと、伝説の『玉』を磨くことも僕の仕事です。」

 もういちど、窓の外を見てみたが、もう少年の姿はどこにもなかった。

 空との境目がよく分からないほど同じ色をした海と、今日もたくさんの人で賑わう伝説の小さな温泉街を見下ろしながら、電車はゆっくりと動き出した。



        お わ り





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今年の2月に北海道で行った

雪の露天風呂も忘れがたいけど、

夜はまだ涼しい春にも温泉は合うし、

暑い暑い夏に熱い温泉もいいし、

もちろん紅葉の温泉もくつろげます。

結局私も、日本人なんだなぁ・・・。

  



Story & comment by みえ



 


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