連載小説「旅色の空」第3回

   蝉の森

作・み え




 もう9月も半ばを過ぎたというのに、この暑さはなんだろう。

 私はイライラした気持ちで、目の前に立ちはだかる藪を払った。

 ・・・それにしても、ここが本当に道なの?けもの道じゃないの。

 一昨日から泊まっている、ペンションのマスターが教えてくれたトンネルなど、まだまだ行く手に見えそうもない。あるのはあちらこちらに根を伸ばした木々と、その足下に生える、鬱蒼と茂った藪ばかりだ。

 ふう、とため息をついて、手近にある樹の根に腰掛けた。水筒を出して、冷たい麦茶を飲む。暑い。長袖を着てきたことを後悔してしまう。昨日までは確かに秋の訪れを感じる、涼しい気候だったのに・・・。

 袖口をまくりながら、空を見上げた。ペンションを出たときは青空が広がっていたが、この密集した木々に阻まれて、太陽の光は葉と葉の間からこぼれ落ちる雫ほどしか届かない。目を細めて見ていると、時折、風になびいてきらきらと輝いた。

 濃緑の続く森の中で、セミの声が合唱している。セミっていつまで鳴くんだっけ?その声の波の中にいるだけで、真夏に逆戻りしたようだ。暑さが余計に際だつ。

 オーナーの話では、そのトンネルとは「季節のトンネル」と呼ばれていて、なんでもそこで季節が変わるという伝説があるそうだ。この暑さがぱっと引いてくれるとも思わないが、それならそのほうがいいかな、などと私はぼんやりと考えた。

 気合いを入れようと勢いよく立ち上がった瞬間、ひざから何かが転げ落ちた。水筒のふただ。閉め忘れていたらしい。ため息を付いて、拾おうとかがみこんだ私の目に飛び込んできたものは、仰向けになったセミの亡骸だった。

「わっ!」

 そのまま視線を横に移動して驚いた。あちこちに、ひしめくようにしてセミの死骸が転がっている。今まで気付かなかったのだろうか。歩いてきて、足下にあるのは落ち葉だと思っていたが、そうじゃなかったのだろうか。もしかしたら踏んでいたかも知れない。でもよく見ると、故意なのかどうか、無数の亡骸は道を避けるように落ちていた。私は罪悪感から少し逃れた気持ちでほっとして、踏まないようにそっと移動した。

 ポピュラーなアブラゼミをベースにして、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、時折ヒグラシの声も混じって合唱している。視線を上げて、空へと伸びる木々を見上げる。じっと見ていても、セミの姿はなかなか見つからない。なのに、この大合唱はなんだろう。一体どこにいるんだろう。私はなんだか頭がくらくらしてきてしまった。足下に目をうつすと、道の両脇にはたくさんのセミの死骸がある。急に、私の目の前に緑の虫かごが浮かんだ。

 ああ、そういえば、私にとって強烈な印象で残っているのは、あのセミだ・・・。ぼんやりと靄がかかったような頭で、ふらふらと歩きながら、私は十数年前の、小学生の頃を思い出していた。



「ねえ、どうしてセミは持って帰っちゃいけないの?」

「セミはちょっとしか生きられないからね、可哀想だろ。」

 暑い日差しがさんさんと降り注ぐ午後、私は目の前で虫かごを抱えた男の子に話しかけていた。これは近所に住む一歳上の幼なじみの和ちゃんだ。周りには数人の友達がいる。みんな、近所の子供たちで、私たちはよく集まって遊んだ。

 そう、あれは小学生時代の夏休みだ。今はもう姿も見かけなくなったが、十数年前はまだ、虫かごを持って野山を駆けめぐる子供達はけっこういた。私たちもそのうちのひとつで、朝から虫取り網とカゴを持って、あちらの森、こちらの林、と一日中泥だらけになって遊んだものだった。

 やっぱり人気があって、なかなか採るのが難しいのはカブトムシで、前の晩、父に付き添ってもらって木の幹に蜜を塗ったりする。翌朝は、その幹にたくさんのカブトムシが集まっているのを期待して出かけるのだが、たいていは蟻が行列をしているばかりで、運が良くてカナブンがいたりするぐらいだ。

 クワガタは、まだカブトムシに比べるとよく見つかる虫だったが、それでも一日走り回って、一匹二匹とか、それだけ採れればいい方だった。だから虫かごはいつの間にか、一番見つけやすく、捕まえやすいセミばかりになってしまう。

 私たち近所のグループでは、和ちゃんが一番年上で、リーダー的存在だった。虫取りでも何でも、必ずリーダーシップをとる彼は、いつも最後にはセミを逃がしてしまう。私はせっかく捕まえたのだから、セミも家に持ち帰って飼育してみたいのに、彼は絶対にそれを許してはくれなかった。

「ねえ、でもこのミンミンゼミは、私が採ったんだよ。名前つけて、家で飼いたいよ。」

「セミはだめなんだよ。ほら、このクワガタあげるから。これ持って帰りなよ。」

 和ちゃんは自分の虫かごからクワガタを取り出すと、私に渡そうとした。諦めきれない私はふくれっ面になって、その手をはらった。クワガタが地面に落ちる。

「やだ!このセミは絶対飼うよ!」

 すると、和ちゃんは怒ったような表情になり、私の虫かごに手を突っ込むと、羽が透明なミンミンゼミを取り出し、ぱっと手を離した。セミは大慌てといった調子で空へ舞い上がった。

 悔しくて、私は泣きだした。それを、周りでじっと見ていたみんなが慰めてくれる。和ちゃんは黙ったまま、落ちたクワガタを拾うと私の虫かごに入れた。

 和ちゃんは正しいことをしていたと、今なら思える。みんなのわがままにも冷静に対応していたし、平等に優しかった。子供時代の年齢は、たとえ一歳でも大きい。一つ年上の彼は、確かに私より知識は豊富だった。セミはすぐに死んでしまうという意味も、よく理解していたようだが、私にはまだその事実がよく分かっていなかった。だから、私は哀しくて悔しくて、半ば意地になってセミを飼うことを夢見ていた。



 ある日、和ちゃんが親の田舎に帰省してしまったことがあった。朝のラジオ体操でそのことを知った私は、ずるい考えが浮かんだ。今日こそ、セミを持ち帰るチャンスだと思ったのだ。でも、リーダー格の和ちゃんがいないので、虫取りをしようと言っても誰も乗ってはこない。それがまた頭に来て私は、まだ幼い妹を連れて、いつものように虫取り網とカゴを持つと、セミを捕るために野山に入っていった。

 母にはいつものように数人で遊ぶと嘘をついてしまった。三つ下の妹はまだ小学校にあがったばかりで、手をひいていないとすぐにうろうろとどこかへ行ってしまう。いつもみんなと遊ぶときは、和ちゃんの提案で、幼い子は間に挟んで進むことになっていたから、

こんなに大変だとは知らなかった。見慣れた場所なのに、樹がいつもより大きく見えるし、妹にも注意しなきゃいけないし、すぐに私は心細くなってしまった。

 だが、そんな自分に余計に腹が立つ。負けん気ばかりが強かった私は、ずんずんと奥へ入っていった。不思議なことに、あんなに目立つセミが、今日は全然視界に入ってこない。声ばかりで、いくら木を眺めてみても、姿が見えない。いつもなら、3,4匹は採れてしまうセミなのに、今日は一匹も捕まえることができなかった。

 しばらくして、心細さも限界に達し、そろそろ帰ろうかな、と弱気を認めはじめた頃、目の前の大きな木に一匹のセミが止まっているのが見えた。セミの中でも一番好きなミンミンゼミで、私は嬉しくなって網を構えた。

 妹にそこにいるようにと言うと、私はそっとその木に近づいた。セミはわりと木の下の方にとまっていて、小学生の私でも、手を伸ばして網を使えば、なんとか採れるぎりぎりの位置にいた。そうっとそうっと手を伸ばす。セミの体をすっぽりとおおえるように、よく確認しながら、私はセミの背中から三十センチほど離れた空中で網を一度止める。それから、勢い良く木に向かってかぶせた。驚いてセミが飛び上がる!しかし、見事におおいかぶさった白い網の中で、すぐにひっかかってしまって、セミは暴れた。やった!捕まえた!そう思った瞬間、後ろから悲鳴が聞こえた。

「おねえちゃん!」

 振り返ると、妹が狭い山道から外れて、脇の木々が密集した坂へ転げ落ちそうになっている。山道の端の坂側は草木に隠れてわかりにくいが、とてもくずれやすい。大した崖でもないのだが、私たち子供にとっては大変なものだった。私は慌てて、一瞬どうしたものか迷った。今網を放り出したら、セミが逃げてしまう。でも必死に細い木の枝に掴まっている妹も、危ない。子供の頭では、セミを捕まえる方が先だと一瞬思ったものの、泣きわめく妹の顔を見たら、さすがに放ってはおけず、私はすぐに網から離れると、手を伸ばして、妹を引っ張り上げた。

 妹は両ひざをすりむいたらしく、血が出ていた。ハンカチでその血をふいてあげながら、頭はパニック状態だった。これは、お母さんに怒られる、どうしよう。嘘をついたこともばれてしまうかもしれない。

 そのとき急に日が陰った。ただでさえ薄暗い林が、さあっと暗くなって、どこからともなくヒグラシの声が響き出す。ヒグラシの声は、なんとなく夕方の寂しい時間を連想させて、その頃あまり好きではなかった。

 人気のない林の中、急速に心細さが恐怖へと変わってゆき、急いで妹の手をひくと、帰ろうとした。

「おねえちゃん、あみは?」

 まだ涙で潤んだ目をこすりながら、妹が言う。もうそんなものどうでもいいくらい、気持ちは怯えていたのだが、せっかく父に買ってもらった網を放っておく訳にもいかない。私は妹の手を握ったまま、地面に落ちている虫取り網を取りに戻った。

 薄暗くなった林は、木も、地面もみんな同じような色で染まる。その中で目立つ、真新しい白い網がぱさぱさと、動いていた。

「あ、セミだよ。」

 無邪気な声で妹が言う。驚いたことに、先ほどのセミがまだ網にかかったままだったのだ。とたんに消えかかっていた嬉しい気持ちが戻ってきた。私は急いでセミを虫かごにうつした。同時に、セミの声が一段と大きくなったような気がして、再び恐怖が増してくる。林の中は相変わらず暗くて、周りから響くセミの声はまるで、仲間を採られた怒りの声にも聞こえるのだ。セミが怒ってる、大変だ。

 私は慌てて妹の手をひくと、追いかけられるような気分で帰り道を急いだ。

 家に着くと、すでに近所の人の話で私が嘘をついたことはばれていて、さらに妹を怪我させたことでさんざん怒られた。けれども、私はついに念願のセミが飼えるということに、先ほどの恐怖もどこかへ行ってしまい、嬉しくて仕方なかった。

 だがセミは、翌朝、死んだ。緑色の虫かごの中で、仰向けになっていたセミの姿が未だに脳裏に浮かぶ。

 そしてそのときやっと私は、セミは少ししか生きられないから、逃がしてあげるんだという、和ちゃんの言っていた意味が分かったのだ。



「大丈夫ですか?」

 急に頭上から降ってきた声に朦朧としながら目を開けると、揺れる枝と枝の間から、澄み渡った青空が見えた。一瞬頭が混乱する。ここは、あの虫取りによく行く林だろうか。

「大丈夫ですか?どうしました?」

 声につられてまだ開け切らない目を必死で動かすと、こちらをのぞき込む男性の顔が視界に入った。

「あなた、ここで倒れていたんですよ。」

「えっ?」

 やっと目が開いて、頭がくるくると回転しだした。そうだ、私は伝説のトンネルに行く途中だったんだ。あれ?でも、倒れていたって・・・。

 それから、私はどうやら大きな木の根の上で、仰向けになっているらしいことに気付いた。途端に、恥ずかしくなって、起き上がろうとする。だが、頭がくらくらして、再び倒れ込んでしまう。

「あ、まだそのままにしておいた方がいいですよ。おそらく、日射病だと思いますから。」「日射病・・・?」

 ぼんやりとした視界には、ちらちらと男性の顔が映っては消える。がさごそと音がしばらくして、やがてひんやりと冷たいものが額と瞼の上にかぶさった。

「しばらく、こうやって冷やしておけば、大丈夫ですよ。軽い日射病のようなものでしょう。僕も、たまにかかります。特に今日は、暑いしね。」

 なんだかとても優しい声だった。男性の顔はまだはっきりと見えていないが、声からして、若そうだ。偶然、この山道を通りかかって見つけてくれたのだろうか。

 セミの声が、十数年前の記憶の残像を思い起こさせる。相変わらず、すごい声だ。

「すみません。なんだか、いろいろしてもらって・・・。」

 やっと気付いて、その言葉を言った。「いや・・・」という返事がかえってくる。

「それにしても、ここはセミの声がすごいなあ。まだ、セミっているんだな・・・。そういえば、セミは一体いつまでいるんだろう?」

 独り言のように、彼はつぶやく。朦朧とした頭で、なんとなくその声に、私は和ちゃんの姿を重ねていた。和ちゃんは中学生のとき、引っ越していってしまった。彼は元気だろうか。

「不思議だなあ・・・。あまり意識していなかったけれど、そういえば、セミってある日突然、声が聞こえなくなる。一斉にぱったりやめてしまうみたいに。地中で数年過ごして、地上に出てくると、一週間ぐらいで死んでしまうと言うし、考えてみると、ものすごく不思議な虫かもしれないなあ・・・。」

 一週間ぐらいで死んでしまう・・・。セミは、そんな短い間、一体何を考えているんだろう。

「・・・そうですよね。たった一週間しか生きられないなんて、可哀想・・・。」

 ひんやりと冷たいタオルで、だんだんと気分が良くなっていった。それでもまだ体を動かすのは辛い。今までの旅の疲れがでたのかもしれない。ぼんやりとそんなことを思いながら、私がつぶやくように言うと、彼はうんうん、とうなづいた。

「でもきっと、その一週間は彼らには僕らの一生と同じぐらいのスピードに感じてるんじゃないかなあ・・・。そう、時間の速さ。生きる速さが、きっと違うんだよ。時間の速さが、きっとセミのほうが速い。たった一週間で、彼らは相手を見つけて、子供をつくって、一生を終える。そんな考えは、ただそうあって欲しいという、人間の勝手な思いこみかなあ。」

 話の内容とは違って、彼はどこか明るい調子で言った。でもその言葉に再び、あの緑の虫かごを思い出す。そうだ。たった一週間でも、その一生を私は奪ってしまった。あの虫かごで死んでいったミンミンゼミは、だれか素敵な相手を見つけられたのだろうか。まだ見つけていなかったら、私はなんてひどいことをしたんだろう。

「・・・どうしました?どこか、痛みます?」

 知らず、涙が出てしまった。こんなことで泣くなんて、と、気持ちのどこかは呆れているのに、止まらない。感情が高ぶっているのだろうか。私は急に口から言葉があふれ出し、昔の思い出と、今初めて気付いたその事実を、彼にしゃべってしまった。

 ちょっと驚いたように、でもうんうんと相づちを打ちながら聞いてくれた彼は、話終わるとじっと黙った。それからしばらくして、妙な声を出し始めた。

「・・・くっ・・・」

「・・・・大丈夫ですか?」

「・・・・くっくっく・・・ああ、いや、すみません。」

 言ってからまた何かをこらえるような声を出す。泣いているのだろうか。そのとき、

「・・・あはははは。くっくっく・・・いや、すみません。でも、ちょっと・・・あははははっはは・・・」

 大きな笑い声が響きわたった。それはあまりに明るい大声で、驚いて私は飛び起きてしまった。一瞬頭がくらりとしたが、先ほどよりはずっといい。横を見ると、思ったより若い男性が、色黒の顔をくしゃくしゃにして、お腹を抱えて笑ってる。瞬間、顔にさっと血が上り、体中が熱くなるほど恥ずかしくなった。

「あの、これ、どうもありがとうございました!」

 憮然とした顔でタオルを渡すと、急いでリュックを手に取った。彼は気付くと慌てて、

「あ、ごめん、ごめん。本当にごめん。いや、君の話がおかしくて笑ってるんじゃなくってさ、自分のことで、笑っているんだよ。だって、その幼なじみの和ちゃんだっけ?その子みたいな子供だったからさ、僕は。」

「え?」

 まだ笑いのにじむ顔でこちらを向く。本当に色が黒いから、口を開けると、白い歯がとても目立った。

「僕も子供の頃、ガキ大将みたく威張ってて、虫取りのときはいつも最後にセミ、逃がすんだよ。下の子達にしたり顔でさ、セミはすぐ死んじゃうから可哀想だ、って言ってさ。でも本当は、飼ったことあるんだよ、セミ。そうやって言うのは、知ってるからなんだよ。いや、もっと酷いことしたかもしれないな。小学生の男の子なんて、セミとかカナブンとか、そういう虫を捕まえてきては遊んでさ、殺しちゃったりするんだよ。確かに酷いことかもしれないけど、そうやってみんな、命の尊さみたいなこと、覚えて行くんじゃないかなあ・・・。これも、人間のエゴかもしれないけどね。」

 言って彼は、短い髪をさらさらと触った。私のそばにいるためだったのか、地面に座り込んで、あぐらをかいている。なんだかそれがとても少年っぽく見えて、ますます和ちゃんと影が重なった。

「だからきっと、その和ちゃんって子もそうだったよ。女の子と遊ぶときは、さすがに虫で遊んで殺したりなんて出来なかったけど、男同士だと、きっとそんなことしてたよ。セミを飼うことなんて、誰もが一度は体験してるよ。夜中に家の中で鳴いて、親に怒られたこともあったし。大体、それじゃあ君は、ゴキブリ殺した後も、後悔するの?ゴキブリだって、大事な一生を途中で終わらされたかもしれないのに。」

 ぐっと言葉に詰まってしまった。確かにそうだ。そういえば、野山を歩いて体に蜘蛛が付いたときなど、私が悲鳴を挙げて逃げると、決まって和ちゃんが蜘蛛を取って殺してくれた。そうか、確かに矛盾してる。だけどなんとなく、ゴキブリとセミの問題を、一緒にして欲しくなかった。

「・・・でも私は、ゴキブリ殺しません。」

 ちょっとすねた顔でいうと、ふうん、と彼は言った。

「それじゃ、君は逃がすんだ、ゴキブリ。ほんとかなあ?ゴキブリホイホイも仕掛けたりしないの?」

「今は、ゴキブリの問題じゃないでしょう?」

「同じだよ。ゴキブリだってセミだって、同じ命じゃないか。」

「そうだけど、違うじゃない、やっぱり。」

「どこが違うの?それが、人間のエゴなんだよ。」

「偉そうなこと言って、エゴとかなんとか、そういう問題じゃないでしょう?」

「そういう問題だよ。」

「だってゴキブリは、害虫じゃない!人間に迷惑かけるでしょ!」

「セミだって、うるさいよ。それにそれじゃ、差別じゃないか!」

「差別って・・・。」

 一瞬お互いとまってから、どちらからともなく、噴き出してしまった。しばらく、セミに負けない声で、笑い声が森に響く。私はなんだか、心からおかしかった。そして笑えば笑うほど、気持ちも体も軽くなっていくような気がした。

「あー、なんかばかばかしい議論しちゃったよ。」

 彼は涙目を拭いながら言う。その涙目がおかしくて、私はまたひとしきり笑った。

「ほんとね。虫の差別問題にまで発展しちゃって・・・。」

 頭はいつの間にかとてもすっきりしていて、気分は本当に良かった。暑いばかりだった空気も、たまに吹き抜ける風が肌に涼しく感じられた。

「セミのこと、それはそれで、後悔するのは悪くないと思うよ。だからこそ、今自分の一生が大切だって思えるしね。」

 彼の声はとても、明るく澄んでいた。私はその言葉にうなづいた。確かに、自分が殺した虫のことなんて、考え出したらきりがない。

「それにしても、どうして今頃あんな夢、見たのかなあ・・・。」

 私がぽつりとつぶやくと、うーん、と彼は唸る。

「もちろん、この森中に響くセミの声が、君の眠ってた記憶を醒ましたんだろうけど・・・。自然への畏怖、かな。僕もこんなに自然の間を旅してきたのに、忘れかけてたかもしれない。」

 自然への畏怖・・・。私はその言葉を頭の中で復唱した。それから、なんとなく二人とも黙って、私たちを囲む木々を眺めた。あの日、私はセミの声におびえ、襲われるかもしれないという恐怖が確かにあった。あの気持ちは、子供だからこそ、まっすぐ受け止めてしまえた恐怖。自然への畏怖心、確かに私も忘れていたようだ。

「さて、もう君も大丈夫そうだし、そろそろ行こうかな。」

 立ち上がり、ぱたぱたとジーパンをはたいている。それから、あ、それ取ってと手を伸ばした。見ると、大きな木の根の間には、見慣れない派手な緑色のリュックがあった。どうやら私の枕替わりに使わせてくれていたらしい。慌てて私はそれを取った。大きくて、とても重かった。

「本当に、ありがとうございました。」

 彼はそのリュックを軽々と背負うと、道の真ん中に立った。自分もリュックを抱えて、道に出た。近くに立つと、背が高かった。

「君も、ひとり旅をしているみたいだね。もしかして、この先のトンネルに行くの?」

「ああ、はい。あなたはもう、行きました?」

「うん。僕はね、もう昨日あのトンネル通って、その先で一泊して、今日はまた引き返して来た所なんだ。それじゃ、あのトンネルの話も聞いた?」

 私は昨晩ペンションのオーナーに聞いたことを思い出した。

「ええ。なんでも、季節のトンネルとか・・・。でも詳しくは知らないんです。少し聞いただけで。季節ってどういうことでしょう?トンネルをくぐると季節が変わるとか?」

「うーん、ちょっと違うな。僕が調べたところによると、あのトンネルが、季節を変えるんだってさ。」

 トンネルが季節を変える?私は首をかしげてしまう。意味が良く分からない。

「古い季節がトンネルに吸い込まれて、新しい季節がやってくる・・・とさ。ま、行ってみれば、きっと、分かるよ。」

 そう言うと彼はニヤリと笑う。その表情に何か意味深なものを感じて、私はそのまま次の言葉を待ったが、彼はニヤニヤするばかりだった。

「あ、そういえば、懐中電灯持ってる?」

「懐中電灯?いえ・・・。」

 彼はリュックを降ろすと、なにやら手をごそごそとその中に突っ込んで、やがて小さな赤い懐中電灯を引っぱり出した。

「それじゃこれ、貸して上げるよ。ないと、ちょっと辛いかもしれないからさ。」

「え?でも・・・。どうやって返せば・・・。」

 手にすっぽりと入ってしまうほどの小さな懐中電灯を受け取って言うと、彼はいいからいいからと、手を振る。

「またいつか、どっかでばったり会ったときでもいいよ。」

 そうやって、いたずらっぽい目つきで笑った。

「さあ、行くかな。」

 うーん、と唸って空に向かって両手を挙げると、とても気持ちよさそうに深呼吸する。その横顔に一瞬、失った恋する人の面影が重なった。とたんに大きな波が押し寄せてくるように、心がざわつく。悲しみや切なさで心が満たされてゆきそうになるのを、振り切るように私も思い切り背伸びをした。

「これから涼しくなっていくけど、体に気をつけて、良い旅を、ね。」

 明るくおどけた調子で言う声に振り返ると、木々の間からこぼれ落ちる、光の筋に照らされた笑顔があった。その笑顔は私の心を波立たせていた嵐を、あっという間に吹き飛ばしてしまう力があったようで、自然に目元や口元が、ほころんでいくのを感じた。

「本当に、ありがとうございました。あなたも、お互い、良い旅を。」

 優しい気持ちで言った言葉に、浅黒い肌に目だつ白い歯を見せて、力強く彼はうなづいた。そして、振り返ると、私の来た道へと歩みだした。

 派手な緑のリュックが揺れている、その大きな背中を見ていると、先ほどとは全く違った方向から、小さな風が吹き荒れて、私の心は波立った。その波の理由がよく分からず、私はしばらく彼の背中をじっと見た。やがて波は去ってゆき、心に不思議な残り香が漂った。それは、かすかに甘酸っぱさが混じる香りだった。知らず、懐中電灯を握りしめた。

「さて、と。」

 気持ちを切り替えようと、私は振り返り、トンネルへと再び足を伸ばす。彼の言ったことは本当で、ほんの5分ほど歩くと、それまで視界を覆うほどに道の両脇から生えていた木々がふいに切れて、小さな広場に出た。そうして目の前に、ぽっかりと黒い闇が現れた。

「これが、伝説のトンネル?」

 想像以上に、小さかった。大昔は大切な道程のひとつだったらしいのだが、そんな面影はほとんどない。ツタが這い回り、藪が生い茂り、あちこち大きなシミのある、少し不気味ささえ漂うようなトンネルだ。高さもあまりないし、横幅も狭い。

 おそるおそる近寄ってのぞき込んでみる。じっと見ていると、随分遠くにぽつんと灯ったような明かりが見える。つまりそれが、出口らしい。これは確かに懐中電灯が必要だ。

 しばらくそのまま佇んで、私は考え込んでしまった。「季節のトンネル」なんて、なかなか洒落た呼び名がついているわりには、恐ろしく古ぼけたトンネルだ。本当に、向こうまでたどり着けるのかな・・・。心が不安で満たされる。

「季節が変わるトンネルって言ってたっけ・・・。」

 この旅をはじめたのは、春と夏の境目だった。あれから、ひと夏を越えようとしている。

 頭の中に、今まで旅してきた場所や、出会った人たち、出来事が思い浮かんでは通り過ぎてゆく。四つの季節のうち一つ、この夏で私は何か乗り越えられたのだろうか。

 いや、越えたい、と思った。夏から秋へと季節が移り変わるとき、私も一緒に変わってゆきたい。前の季節をこのままひきずりたくない。

 ざわざわと、風が葉を騒がす音が大きくなった気がした。ふと、妙な気持ちになる。さっきまで、こんなに葉っぱの音、したっけ?それから、その理由に気付いて、はっとした。

「セミ、は・・・?」

 セミの声が聞こえないのだ。さっきまでずっと、気が遠くなるほど森中を響かせていたセミの声が、少しもしない。そんなバカな、と私は小走りで元来た道へ少し戻る。けれども、先ほどとは景色は何も変わらないのに、セミの声が聞こえてこない。

 一体どういうことだろう?

 呆然と立ちつくしたそのとき、森のどこからか、小さなざわめきが聞こえた。それは、風が起こす木々の音とは明らかに違う。ざあざあ、がさがさと、いろいろな音が入り交じって、だんだん大きくなってくる。私は急にたったひとりでこの森に迷い込んだ心細さを覚えて、思わずしゃがみこんでしまった。あれ?ここは、昔、妹と二人でセミ採りに行った林だっただろうか?先ほどまで夢で見ていた風景と重なり、恐怖心はどんどん増す。音は、どこからかこちらに向かって進んできている。恐怖で、耳をふさぎたくなった。

 ついに、もうすぐそこまで森中に響きわたる異音が迫ったそのとき、

「あっ!?」

 私は道の向こう側から、黒い影が現れるのに気付いた。黒い影?いや、それは瞬間、鳥の群れのように見えた。しかし、凍り付いたように動けなくなった私の目の前にはっきりその正体が見えたとき、私は自分の目を疑った。それは、セミの群集だったのだ。驚いて、目を見張る私の頭上を、何百匹、何千匹、検討もつかない数のセミ達が通り過ぎる。ざあざあ、ぶんぶんとせわしない羽音を響かせて。

 セミが群れをなして飛ぶところなど、見たことも聞いたこともない。信じられない光景に、私はそのまま首をまわしてセミの動きを追った。セミの行く先には、あの古ぼけたトンネルが口をぽっかり開けている。その口に吸い込まれるように、セミは少しの迷いも見せず、一直線にトンネルの闇へと消えていった。まるでトンネルが飲み込んでいるみたいだ。セミは、次々にその羽を目にもとまらぬ速さで羽ばたかせ、消えてゆく。

 一体どれぐらいの数がいたのだろうか。気付くと私はその場に尻餅をついたまま、呆然とトンネルを見つめていた。セミは、一匹残らず闇へと消えた。

 空を仰ぐと、この森へ踏み込んだときとは少しも変わりない、明るい日差しが木々の間から洩れている。きらきらと輝く、太陽の光。風のざわめき。土の匂い。はっとして私は、視線を落とした。道の両脇に落ちている、無数のセミの死骸、しかしそれはどこにも見当たらなかった。

 ゆるゆるとなんとか立ち上がると、手近の樹にもたれて、私は前方のトンネルを見つめた。一体なんだったのだろう。今見たことは、夢だったの?あれだけあったセミの死骸、あれも夢だったの・・・?いいえ、この森に入ってからずっと、もしかしたら全てが私の白昼夢だったとでも言うのだろうか。しかし私のポケットには、小さな赤い懐中電灯があった。

 疲れた頭をこつこつと叩くと、私はもう一度広場に出て、トンネルの前に立った。そのとき、ふとどこからかセミの声が聞こえた気がして振り返ると、突然、耳に無数のセミの合唱が届いてきた。

 先ほどとは少しも変わらない、その鳴き声の洪水。何度も頬をつねりがら、私はもう一度道へと戻ったが、そこにはやはりセミの亡骸はない。けれども、森中に響きわたるその声は、別段異常も見せず、何事もなかったかのように鳴り響いている。



 混乱した頭で、さっきのセミ達は、魂だったのかも知れないな、などとぼんやり考えた。そうならば、私の虫かごで死んでいたあのセミも、あの中にいたのかもしれない。

 そう考えたら、なんとなく今まで心の隅に残っていた、小さなかさぶたが、ぽろりとはがれて、どこかへ落ちていったような気がした。

 無数のセミの群れ。なくなってしまった無数のセミの死体。自然への畏怖・・・。

 私は前方の闇を見つめた。夢なら夢のままでいい、でもきっとこの中に、夢の『もと』がある。

 ためらった後、もう一度トンネルへと歩を向けた。入り口に立つと、遠くの明かりは心細いほどに小さく思える。勇気を奮い立たせるように、私は赤い懐中電灯を握りしめた。

「古い季節は吸い込まれ、新しい季節がやってくる、か・・・。」

 このトンネルを越えたところで、何かが変わるということもないかもしれないけれど、私はこの季節を越えてゆかなければならない。

「行きます!」

 小さなトンネルで、つぶやくように言ったその声は、思ったより大きく響いて、こだました。

 そのとき、ひゅうっと涼しげな風が吹いて、ちらちらとほこりを舞い上げた。私が思わず目を閉じると、何かが顔にぴたっと当たった。急いで頬に手を当てると、そこには、一枚の葉が、鮮やかな紅に染まって、居た。

 前方には、小さな光がぽつりと見える。葉を握りしめ、懐中電灯のスイッチをつけると、その光に向かって、私は一歩、進み出た。



          お わ り




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残暑の厳しい9月、机に座ってたら目の前の網戸に

セミがはりつき、もぞもぞ動いているのを見て、

この物語を思いつきました。

ひとの心にはたくさんの「傷」があるけれど、

ほんのちょっとしたきっかけで、消えることもあるのです。

  



Story & comment by みえ



 


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