一緒に緑を駆けよう

作・み え



 昨晩から急に冷え込んだせいなのだろうか。以前よりずっと胸が苦しくなった。
 ひゅうひゅうという音が鼻から息をするたび聞こえる。胸がつまって何度も咳き込む。
その度に、ごぼごぼとイヤな音が体の中から響いてくる。
 空を見上げても、明るいことしかわからない。周りの視界はみんな白っぽく霞んで、
今はおそらく昼なのだろうと思うだけだ。
夜になると闇がどこまでも続くのは、もうずいぶん前からのことだ。
でも、今までは朝になれば周りの風景は見えていたのに。
 どん、と体が壁にぶつかった。何も見えないけれど天を仰ぐ。確かこの小さな中庭からは、
赤い屋根と、その先に見える青い空、そしてお姉ちゃんの部屋の窓が見えたはずなのに。
足元はふらふらと宙に浮きそうだったけど、それでもそのまま仰ぎつづけた。
 ふと、白いだけの視界に、どこまでも続く青い空と果てしない緑の草原が見えた。
 …神さま、神さま、どうか、もう一度だけ…。
 白っぽく霞む視界をじっと見つめたまま、ぐらりと体が冷たい地面に倒れて行った。


**************** **************** **************** ****************


 はっとしてブレーキを踏んだ。車体がぐーんと停止線をはみだしてしまった。横断歩道を渡るオバサマ方が、迷惑そうににらんでいく。私はなるべく視線を合わさないように、運転席で小さくなって、やり過ごした。
 今日は本当に運勢の悪い日だったに違いない、ハンドルを握り締めてそう思う。こんなに嫌なことが重なる日って、きっと年に一度もないんじゃないかしら。ちらりと時計に目を走らせると、今日が終わるまであと一時間もあって、ためいきをついてしまう。
 こんな日は、早く家に帰ろう。お風呂に入って、早く寝てしまおう。
 アクセルを踏む足に力が入った。そのとき、突然何かが暗闇を照らすヘッドライトに現れて、私は驚いてブレーキを踏み、ハンドルを切った。
 キキーッと嫌な音を響かせて車は大きくスリップした。視界がぐるりと転回して、思わずハンドルに顔を伏せてしまう。
 ほんの数秒の出来事だったのだろうが、私には果てしなく長い時間に思えた。がちがちと震える手でハンドルを握り締めたまま、衝撃が来ることを想定して目をつぶっていたのだが、やがてその静けさに気づいてそっと顔をあげると、幸いなことに、車体は頭を右斜め前にして止まっているだけで、一見異常なさそうに見えた。
 はっとして、振り返ると、私の走っていた車線の真ん中あたりで、何かがもぞもぞと動いているのが見えた。大慌てでドアを飛び出し、駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?!」
「はい…。すみません」
 赤いジャンパーにジーンズ。まだ幼さの残る顔をあげて、少年は言った。びっくりしたように、丸くて大きな目を見開いている。十四、五歳だろうか。転んだ拍子に擦りむいたのか、頬が少し血でにじんでいる。
「ごめんなさい。大丈夫?どこかぶつけたりとか…しました?」
 おろおろと私が聞くと、その言葉ではっとしたように自分の体を見まわして、腕や、足を何度もさすった。それから、大丈夫です、と少し嬉しそうに言う。その表情にちらりと不審さを感じた。
「もしかして、どこか打ってるかもしれないし…。病院、行きます?」
「えっ、いえ、いいです。突然飛び出した僕がいけないんです」
「大丈夫ですか?!」
 バンっとドアの閉まる音がして、後ろからサラリーマン風の若い男性が駆け寄ってきた。あまり混まない道路とはいえ、後続車が来て、異常に気づいたのだろう。
「あ、いけない。車寄せないと…」
 私がそう言うと、少年はむくりと立ち上がって、近寄ってきた男性と私に向かって、本当に大丈夫ですから、と両手をぱたぱたして見せた。
「事故ですか?大丈夫?」
 サラリーマンは不安そうな顔で私と少年を交互に見る。わけを話して、とりあえず私は二車線分塞いでしまっている自分の車を、端に寄せた。サラリーマンは少年の元気そうな様子を見て、安心したのか、行ってしまった。
「本当に平気ですか?」
「はい…。お姉さんこそ、大丈夫ですか?」
「え?私は平気よ。あ、そうだ。もし今後何かあった時のために…」
 バッグから名刺を出して、裏に住所と名前を書くと、私はそれを少年に渡した。
「もしやっぱり後でどこかおかしかったりしたら、ここに連絡ください。あ、それと念のためあなたの名前と住所も教えておいてください」
「え?」
 言うと、少年は一瞬うろたえたそぶりをした。それから、いえ、大丈夫ですから、と繰り返す。
「でも、そういうわけにもいかないし…」
 少年はいいです、ともう一度言って、こんこんと咳をした。
「あ、ほら、咳もしてるし」
「いや、これはその、もともと風邪気味なだけなんです。本当に平気ですから」
 遠慮してるのだろうか。まあ、名刺も渡したし、大丈夫かな。やれやれとほっとして私はため息をついた。
「それじゃあ、せめて送らせて下さい。家、どこですか?」
「…Y市」
「え?Y市?」
 びっくりして、思わず声高に聞き返してしまった。だって、Y市といえば、ここから車で3時間はかかるところなのだ。なんでそんな所に住んでる人が、こんな時間にここにいるのだろう。あっけにとられていると、少年はにっこり笑った。
「はい、Y市なんです。実は、僕どうやって帰ろうかと、考えていたところなんです。連れてってもらえますか?」
 さらりと無邪気にそう言ってのけた。もしかしたら一風変わった、当たり屋かもしれない。最低にツイてない一日の最後にこれかと、私は絶望的な思いでその笑顔を見つめた。


「大丈夫ですか?お姉さん。明日、仕事は…」
「別に、休むからいいわ」
 深夜の高速道路は、大型トラックがびゅんびゅん走っているから、あまり好きではない。もともと運転は得意じゃないのだ。そう、たまたま今日、仕事で使う羽目になっただけなのだ。それから、この悪夢が始まってしまった。
「すごいなあ、うわっ。あんな大きなトラックが、あんなスピードで…」
 助手席で、まるで初めて車に乗ったかのようにはしゃいでいる、この変わった少年の明るい声を聞いていると、対照的にこちらはどんどん落ち込んでしまいそうな気分になって、思わずきつい言い方をしてしまう。
「…なんであなた、こんな時間にあんなところにいたの?Y市から来たの?今日?」
 急に、無口になる。何か事情があるのかもしれない。ちらりと視線を走らせると、じっと正面を見つめたまま、ごほごほと咳をする。それから、どこか寂しい表情をした。
「まあ、いいわ。あなたがたとえ当たり屋だったとしても、もう、こうなったらヤケだわ」
「…当たり屋?」
「今日はとにかく、嫌なことばかりの一日だったの。Y市なら私もよく知ってるし、たまにはそういうところへ行って、ぱーっと気分転換するのもいいかもね」
 無理やり明るい声を作って言葉にしてみると、本当にそんな気がしてきた。こんな幼さの残る少年に間違っても何かされるとは思えないし、故郷であるY市に帰ってみるのもいいかもしれない。嫌なことが、少しは忘れられるかも…。
「あ、ねえ、あれは何?時々明るい広場みたいな所を通るけど」
「え?あれは、サービスエリアだけど…。ねえ、本当に知らないの?高速とか、乗ったことないの?」
「うん、ない。車は乗ったことあるけど、こういう道は、初めてなんだ」
 例の無邪気な笑顔でそう答える。その黒目がちの丸い目に、一瞬見覚えがあるような気がしてはっとなる。好奇心いっぱいの、きらきらと輝く目。それは何故か私の心の内に、ふんわりとした暖かさをもたらした。
「次のサービスエリアで、ちょっと止まってみようか」
「え?いいの?」
 嬉しそうに笑う。その笑顔に、再び胸の奥がくすぐられる。
 深夜のサービスエリアは寂しい。お店はさすがに全部閉まっているし、トイレと、自動販売機だけが、こうこうと輝いている。
 自動販売機で暖かいミルクティを二本買って、きょろきょろとものめずらしそうに周りを見ている少年に渡した。
「そういえば、名前、なんていうの?名前ぐらい教えてくれてもいいじゃない」
「…ろく、って言います」
「ロク?面白い名前ね」
 おじいさんの名前みたいだなあ、と口に出さずに心でつぶやきながら、ミルクティを一口飲んだ。今年の冬は暖冬という話だったけれど、去年よりずっと寒い。雪ももう何度か降っているし、今夜もかなり冷え込んでいる。しゃべるたび、暗闇に目立つ白い息が、ミルクティでますます濃くなって、気温の低さを実感させる。
「ねえ、嫌なことがあったって、どんなこと?」
 寒くて、手がかじかんでるせいなのだろうか。不器用な手つきで、やっと缶の口を開けたロク君が、おいしそうに一口飲んで、そう聞いてきた。
「うーん…、もうあんまり思い出したくないんだけど…。とにかく、嫌なことが重なって、何もかもが嫌になったっていう感じかな」
「ふうん。何もかもが嫌、かあ」
 ごほっと咳をして、それを押さえるみたいにごくごくとロク君はミルクティを飲んだ。私は半分ぐらいまで飲んで、中身を捨てるとごみ箱に放った。
「あれ?なんで?全部飲まないの?」
「え?うん。なんだか、甘すぎちゃって、おいしくないから。最近甘いの嫌いになっちゃって」
「もったいないね」
 ぼそっと、つぶやくように言ったその言葉に、少し罪悪感を覚えた。
「ミルクも嫌いなの?昔から?」
「うーん、そうね。昔は甘いのも、ミルクも大好きだったけど…。大人になるにしたがって、だんだん味覚が変わるのかなあ。好きなものが、嫌いになったりするのよ」
 なんとなく言い訳がましく話すと、ふうん、とロク君は納得しないような顔で首をかしげる。
「大人になると、好きなものが、嫌いになったりするの?」
「え?…そうねえ、そう言われてみると、嫌いなものは増えて行くけど、好きなものって、あまり増えない気がする」
 再び、今日一日の嫌な出来事が思い起こされて、気分がささくれだつのが分かる。頭を振り払ってその思いを解くと、私は車へと向かった。
「あ、犬だ」
「え?」
 立ち止まってロク君が指差すほうを見ると、一匹の白い子犬がサービスエリア内をすばしっこく走りまわっている。そしてそのあとを、飼い主らしい若い夫婦と、子供が追いかけているのが見えた。
「こんな時間に…。旅行に行く途中かしら。犬が、車から逃げちゃったのね」
「犬は?犬も嫌いになっちゃった?」
「え?」
 じっと、前方のその騒ぎを見つめながら、ロク君が声のトーンを落として聞いてきた。私はその言葉で、ぱっと目の前に子供の頃から飼っている愛犬の姿を思い描いた。
「犬は好きよ。子供の頃から、大好き」
 思わず明るい調子で言うと、ロク君はほっとため息をついて、嬉しそうに振り返り、
「そっか。良かった」
 と言って、たたたっと子犬の方へ駆け出した。
「アニー、戻って来なさい!」
 お父さんらしき人が、向こう側から声を荒げてる。子犬はぴょんぴょんと、軽やかな身のこなしで走りまわる。深夜のサービスエリアにちらほらといる人たちが、あちこちから軽い声をかけている。
 ツーリングの途中らしき若い男性が『アニー、こっちおいでぇ』と、声色を真似て言うと、子犬はその足元をまるで小バカにしたようにするするとすりぬけて、差し出した手のひらに見向きもせず、走り去る。そこに、ロク君の赤いジャンパーが近づいて行った。
 ロク君は、子犬に向かって、ヒュウッと口笛を吹くと、その場でじっとしたまま、手を二,三度振った。瞬間、驚いて私は目を見張った。その様子をちらりと見た子犬は、急におとなしくなると、ちょこちょこ歩いてきて、しゃがんだロク君の手にからみついたのだった。
 周りの数人の見物人たちから、おお、という声と拍手が起きた。ロク君はにっこり笑って子犬を抱きかかえ、息を切らして走ってきたお父さんに渡した。
 飼い主は何度も何度もお辞儀をすると、いそいそと戻って行った。
「すごいじゃない。あんなにちょろちょろ逃げ回ってた犬を。魔法みたいだったわよ」
 その子犬のような、軽い足取りで戻ってきたロク君に思わずそう言うと、彼は顔全体をくしゃくしゃっとさせて、嬉しそうに笑った。
「そう。僕、魔法使いなんです。『犬語』がしゃべれるの」
「あはは。うらやましいわ」
 おどけて言ったその口調に、思わず心から笑ってしまった。それは、今日一日あった嫌なことが、ぱんっと消えてしまうような爽快さを生み出す、笑いだった。


「もうすぐ、Y市ですね」
「そうね。Y市のどの辺に行けばいいの?」
 深夜三時近く。色々あったせいで気が高ぶっているのか、あまり眠気は感じずにY市近くまで来ることができた。高速を降りて、一般道に出る。生まれてから高校を卒業するまで育ったこのY市は、そんなに大きな街ではない。私の高校卒業と同時に、家族みんなで今住むT県に引っ越してしまった。
「Nって町なんですけど、ご存知ですか?」
「え?あなた、N町出身なの?驚いたぁ。私も、そこに住んでたのよ」
 偶然が続いて、なんだか恐ろしいものさえ感じてしまう。それにしても、こんなに夜遅くなってしまって、家族は心配しないのだろうか。
 何度か、電話したらと言ったのだが、大丈夫です、としか言わない。一体どういう生活をしている子なんだろう。ちょっと興味も湧く。
「N町って、桜が綺麗な公園があって、有名なのよね。懐かしいなあ。私、その公園に行く途中の道に住んでたの」
「あっ、その公園って、緑色の広場があるところですよね?」
 突然、声を荒げて聞いてきたので、驚いて一瞬ブレーキを踏むのが遅れてしまった。また、派手に停止線をはみ出してしまう。
「びっくりしたあ。そんな大きな声出さないでよ。…そうよ、だって、緑地公園って言うじゃない。N町に住んでるなら、行ったことあるでしょ?」
「うん。何度も何度も、行きました」
 何がそんなにうれしいのか。にこにこと満面の笑みを浮かべてそう言うと、髪の毛をぐしゃぐしゃっと触る。そのしぐさにつられて頭を見て、そのとき初めて彼の髪が赤茶色だったことに気づいた。
「広い広い草原なんですよね。緑がいっぱいで。行きたいなあ、そこに」
「今は冬だから、草は枯れ切って茶色いと思うわよ」
 何気なく言って、車を発進させた。懐かしい道路とその風景を楽しみながら大分行ったとき、ふと急に静まりかえった助手席に気づいて横を見てみると、ロク君は、寂しそうな顔で、じっと前を見ている。
「どうしたの?」
「いえ、ちょっと…。でもそうですよね、今は冬なんだ…」
 何を当然のことを…?不審気に思って彼を見ると、振り返ってにっこりと微笑んだ。
「ねえ、でもちょっと、行ってみません?あの公園に」
「ええ?こんな夜中に?」
「だって、僕だって、こんな夜中にもう家に帰れないし。朝になってから帰ったほうが、都合がいいんです」
 うーん、と思わず唸ってしまう。確かに言われてみれば、そういうこともあるのだろうか。それに私には、彼を轢きそうになったという弱みもあって、うなづかずにはいられなかった。


 だんだんと白み始めた空の明かりで、視界は大分良くなってきた。
 公園に車で入れるのは途中までで、そこから先は歩きになる。仕事帰りのヒールの靴で木の階段を登るのは辛く、身軽そうに先へとひょいひょい行くロク君は、途中途中で立ち止まっては、こちらを面白そうに見ている。
「はあ…。さすがに、子供の頃のようにはいかないわね。足が、棒になりそう」
「元気ないねえ。昔はもっとぽんぽん、走って登れたのにね」
「え?」
 驚いて顔をあげるともう後姿で、その赤茶けた髪をなびかせ、階段をぴょんぴょんと走って行ってしまった。
「早くー!もう、あと少しだよ」
 私の疑問などおかまいなしに、無邪気に叫ぶその声が、階段を囲む林の木々に響いた。
 頂上に登ると、まず桜並木がずらりと続き、その先に芝生の広がった公園が現れる。
 空は大分明るくなって、冬の早朝らしい、きんとした冷たい靄で薄く覆われた枯葉色の草原が、どこまでも広がっていた。
 さくさくと、霜柱が足元で音を立てた。遠くに見える山並みは、うっすらと雲をかぶっていて、ぼんやりと裾野のシルエットが浮かぶ。
「久しぶりに来たなあ…」
 コートの襟を押さえながら、はあっと白い息を出して私は言った。この町を去るまでの18年間、幼馴染と遊んで、転げまわった思い出が頭をよぎった。中学生になってからは、飼い犬の散歩に時折訪れた。桜の花びらが散る中で、青々とした草原を、追いかけっこしたりしたなあ…。
「やっぱり、暗い色だね」
 しょんぼりとした声に隣を見ると、ロク君はその場にぺたりと座り込んで、周りを見渡しながら、辛そうに咳をした。
「寒いでしょ。風邪、大丈夫?」
「…しょうがないよな。季節が違うんだもんね…」
 私の言葉が耳に入ってないように、ため息混じりにつぶやいた。
 ロク君が黙り込んでしまうと、時折わずかな風に吹かれて、草原の奥に佇む暗い林が音を立てるのが聞こえてくる。足元の霜柱をさくさくと踏みつけながら、なんとなく私も寂しい気持ちに襲われた。
 ふと空を見上げると、雲と雲の切れ間から光がこぼれてくるのが分かった。夜明けだ。
「ねえ、見て」
 座り込んでじっと視線を落としてしまっているロク君に、思わず励ますような明るい口調で声をかけて、指を空に向けた。ロク君はその私の指につられて顔を上げると、とたんにはっとした表情になった。
 周りの雲を輝くオレンジ色に染めて、太陽がゆっくりと姿を現す。遠くの山々に、ふもとの町に、その光が差込んで、目を開けていられないほどまぶしく光る。
「ねえ、お姉ちゃん」
「え?」
 まぶしさに目を細めたまま振り返ると、黒い瞳を無邪気に細めた笑顔のロク君がいた。
「かけっこしない?」
「え?かけっこ?」
 彼の髪が太陽の光に透けて、綺麗な赤茶色に輝いた。そして次の瞬間、あどけない笑顔が、広い草原に向かって、走り出した。
「あ、待って、ロク君!」
 驚いて一歩踏み出したその足が、異常を伝えてきた。ふわりとやわらかい足元に視線を落とすと、そこには先ほどの冷たい霜柱が降り立つ枯草の姿はなく、青々とした緑が広がっていたのだった。
「あれっ?なに、これ?」
 慌てて視線を周りに向けると、白く輝く太陽の光を反射させて、空と同じぐらいまぶしい、黄緑色の草原がどこまでも広がっていた。
「ろ、ロク君!ちょっと、これって…」
 輝くばかりの明かりのせいで、白っぽくさえ見える緑の草原を、気持ち良さそうに両手一杯広げて走って行く赤いジャンパーの後姿に、声をはりあげて叫ぶと、彼は振り向いて、負けないほどの明るい笑顔を見せた。
「ねえ早く!前みたいに、一緒に走ろうよ!」
「…だって、どういうこと…?!」
 赤茶けた髪をきらきらと輝かせて、そのとき、強い風が草原を走り抜けて行った。どこまでも続く緑の草原にたわむれるようにして、赤茶色の毛をなびかせた犬が一頭、全力疾走で風と共に走り去って行った。


 夢だったのか、幻想だったのか。ふと気づくと、白い朝陽に照らされた、枯草の広がる草原に私はひとりぼっちで、佇んでいた。
 ふと、どこからかピロピロと軽いメロディが流れ、はっとして足元に落ちているバッグを拾うと、中から携帯電話を取り出した。
「お姉ちゃん?やっとつながったー!今、どこ?」
「…ああ、チエ。今ね、N町の緑地公園」
 妹の声を、久しぶりに聞いた気がする。ほっとして、そう言うと、素っ頓狂な声が返ってきた。
「N町?!なんで、そんなとこいるの?…とにかく、早く帰ってきてよ」
「どうしたの?」
「ロッキーが、…死んじゃったの」
 ぐらりと、足元が崩れて行くのを感じた。妹の、もしもし、もしもし、という呼びかけを遠くに聞きながら、私以外誰もいない、寒々とした寂しさの広がる草原を見つめた。


 中庭で飼っていた犬が、3日前から急に体調を崩していたのは知っていたが、毎晩仕事のため遅く帰ってきていた私は、出勤前に二階の窓から声をかけるだけで、そこまで病状が悪化していたとは気づかなかった。今朝、いつものように散歩に連れて行こうと覗いた母の目に、冷たく小屋で横たわるロッキーが映ったという。
「もう目も全然見えなくなっちゃってたのよ。息も…苦しそうだったし」
 ダンボールにそっと横たわる遺体に花を添えながら、母が言った。
「でも見て、この表情。安らかだよね。眠ってるみたい」
 そっと赤茶色の毛をなでながら、妹は涙をぼろぼろ流して言う。私は、そのふたりのやりとりを、ぼんやりと見つめていた。
「お父さんが、さっき連絡してくれたから…。もうすぐ、保健所のひとが来るよ」
 ぐずぐずと、ティッシュで鼻をつまんで言うと、妹は私にガーベラを手渡してきた。
「しょうがないよ…。もう、十五歳だったんだもん。長生き、した方だよ」
 鮮やかなオレンジ色のガーベラをそっと頬のそばに置いて、私はその頬を、足を、体をなでた。ふわふわと、その綺麗な赤茶色のイメージを裏切らず、いつさわっても暖かった体は、冷たく硬く、動かなかった。
 たまらなくなって手を離すと、妹が小屋から赤いひざかけを持ってきた。
「あれ?それ…」
「うん、これもいれてあげようと思って。最後まで、体をくるんでいたものだから…あれ?」
 ふわりと体を覆った瞬間、ぽとりと何かが地面に落ちた。妹は不審げにそれを取り上げる。
「ん?これ、お姉ちゃんの名刺じゃない。なんで、こんなところにあるの?」
 震える手でそれを受け取ると、裏には私の手書きの住所と名前が書いてあった。
 それを見た瞬間、何かがはじけたかのように目から熱いものがほとばしって、それはいつまでも止まらなかった。
 名刺がぐしゃぐしゃになってしまっても、私はそれをにぎりしめたまま、いつまでもいつまでも泣きつづけた。



おわり





comment


一月五日に愛犬が亡くなりました。
結婚して家を出るまで、毎日私が散歩に連れていってました。
最後に見た姿は、死ぬ三日前、お正月に帰省した時で、
その日から急に空ばかり見上げるようになったという、
ロッキーの白くにごった瞳でした。
やっと気持ちが落着いたころ、しきりにあの時の天を仰ぐ
姿ばかりが思い出され、この物語が生まれました。
本当の気持ちは分からないけれど、そうであってほしいという、
飼い主の勝手な願いが、こめられてしまったようです。


Story & comment by みえ


 


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