一瞬の海

作・み え



 

 突然、目の前にきらきらと輝く海の映像が差し挟まれ、まだ眠気の覚めきっていないぼんやりとした頭が、はっと緊張した。

 慌てて過ぎ行く車窓の風景を目で追ったけれど、もうそんなものは見えない。トンネルに突入したのか、真っ暗な風景が続くだけだ。隣に立っている不審そうなオジサンの視線に気づき、気まずくなって顔の向きを戻すと、いつもの朝と寸分違わぬ、通勤ラッシュで混み合う車内をぐるりと見まわした。

 まただ…。今日で、四日目だ。

 四日前、毎日三十分乗りつづけるこの電車の窓に、突然現れた海の風景。今まで、四年近くもこの電車に乗って通勤しているのに、一度もそんな風景を見た記憶はなかった。

 ふいに、目の前に広がる海と潮風の匂いが、いっせいに押し寄せてくる。これは…きっと、別の海の風景だ。頭の隅に追いやられていた、いつか見た海の記憶。

 懐かしい潮の香りが混み合う車内に漂って、その幻想に浸ったまま、私はホームに降り立った。

「おい、何をそんなに真剣に、外、眺めてたんだ?」

 ふいに横から声がかけられ、振り返ると兄が立っている。

「あれ、今の電車に乗ってたの?」

「ああ、間に合ったからさ。人が多くてお前のそばには行けなかったけど、何か必死に窓の外見てなかったか?」

 背広の波に押され、改札口を出ながら兄が言う。

「別に、なんでもないよ。もう、遅刻しちゃうから、それじゃあ」

 冷たく言って私は、偶然同じ駅にある、兄の勤める会社とは別方向の出口へ向かって、さっさと歩いて行った。言葉とは裏腹に、少し、振り返りたい衝動を抑えながら。

 北海道の事業所に出張に行ってしまう二年前まで、兄と私はずっと一緒に通勤していた。

 五日前出張を終えて帰ってきた兄と、またそうしようと思わないのは、帰ってくるなり兄の言った、「結婚したい人がいるんだ」という言葉と無関係とは言い切れないと、自分でもわかっていた。

「海かぁ…」

 五月の、まだ夏とはいえない風がビルの合間を吹き過ぎて、道路沿いに立つ細々とした街路樹の葉を、さらさらと揺らした。

 

 次の日の朝、ご飯を食べて身支度を整えると、私は兄がまだ洗面所にいるのを確認してから、急いで家を出た。

 改札口に定期券を通して、ホームへと降りる。いつもの場所に並びながら、五月の涼やかな風が、カーデガンの袖先から流れてくるのを、心地よく感じていた。

 キラキラと朝陽に輝く海の風景が、ホームから眺めている線路上に、重なるように浮かび上がった。どこまでも続く青空と、その先にもくもくと立ちはだかる白い入道雲。それから、裸足の足の裏に気持ちいいさらさらの砂浜。ここ何年も海をまともに見た記憶はなかった。これは、子供の頃一番多く見た、海の記憶だ。

 電車の窓に一瞬だけ現れる海の風景に刺激されたせいなのか、幼い頃家族で出かけた、父の実家近くの映像が、折に触れて現れることが多くなった。

 夏休みの朝、起きると朝食の準備をしている母を置いて、父と、兄と三人で砂浜へ、海を眺めによく出かけた。

「海が、まっぷたつに割れる話、知ってるか?」

 波に近寄っては、押し寄せてくるしぶきに声を上げて逃げ惑う私と兄に、突然父はそう言った。

「なあに?それ」

 兄が聞くと、父は大昔の話だが、と言って、お得意の映画の話をし始める。

 瞳をきらきら輝かせて父の話を聞きながら、質問を浴びせる兄の姿がいつも大人に思えた。なんとかそんな兄に近付きたくて、父の、子供に話すにしては小難しい内容の物語に、私もなんやかんやと、どうでもいいようなことばかり、聞いていた。



「それで?窓の外に、何が見えるんだ?」

 突然横から声がして、驚いて振りかえると、兄がはあはあと息を切らしながら、立っている。ホームに淡々としたアナウンスが響いて、電車が滑り込んできた。

「なによ。走ってきたの?次の電車でも、間に合うんでしょう?」

「そうだけど、あの、タバコ屋の前でお前の姿が見えたからさ。思わず追いかけちゃったよ」

 久しぶりに、一緒に行くのもいいじゃないか、と兄は言って笑った。その笑顔が、先ほどまで思い浮かべていた、幼い兄と重なって見えた。

 電車は混んでいた。いつもの、一瞬の海が見える窓側を向いて立つと、同じように兄も並ぶ。

「なるほどね、こっちの窓に見えるわけだ」

 納得したような顔で言う兄の横顔を見て、そうよ、と諦めて私は言い、今までの『一瞬だけ見える海』について説明した。

「へぇ。そういうことか」

「お兄ちゃんは、覚えがある?この車線で、海が見えるってこと」

 私が言うと、兄は首をかしげる。

「さあ?全然覚えてないよ。大体、この車線沿いで海なんてあったっけ?」

 これは、私も不思議に思って地図を調べていた。すると、あのトンネル付近だけ、この電車線は『く』の字型に曲がって海岸沿いにぐぐっと近づき、また離れるということが分かったのだった。

 それを言うと、兄はふうんと言って、窓の外を眺めた。

 その横顔を見ていると、ふいに北海道へ行く前の、毎日一緒に通っていたころのことを思い出し、その頃にもどったように錯覚した。

「あ、もうすぐよ。もうすぐ、短いトンネルに入るから、抜けたらすぐだから」

 窓の外がトンネルの暗闇に包まれ、二人並んで真剣に眺めている姿が鏡のように窓に映し出された。次の瞬間、まばゆいほどの陽射しが窓から差込んで、視界は一瞬白くなった。

 すぐに、白い壁が建ち並ぶ家並みが現れて、目印の赤い屋根があって…、そう、ここだ。

 キラリキラリと穏やかな波が陽射しを反射させて、揺れている海の風景が、窓の外に現れると、あっという間もなく、再びトンネルの暗闇に突入した。

「見えた?」

「ああ、確かに。でも、なんでだろう?あんなところに海があるなんて、俺も知らなかったよ」

 どこか好奇心をちらちらと覗かせた瞳を輝かせて、兄はうれしそうな笑顔で言った。

「そうよね?なんでだと思う?五日前に気付いたばっかりなんだけど」

 そんな兄の表情を見てると、こちらまでついはしゃいだ言い方をしてしまう。

「よし」

 強く言って、兄はこちらを振りかえると、

「次の駅で、降りて、見に行ってみよう」

「は?」

 思いもしなかった言葉に、間抜けな返事をしたとき、電車がホームに滑り込んだ。いつもの降りる駅から、三つ手前の、一度も降りたことのない駅だ。

「ほら、行くぞ」

 言って、兄は私の腕をつかみ、降りる人たちの波に割り込んだ。

「え?ちょっ…」

 待って、という間もなく、後ろから横からの人並みに揉まれるように、私はドアの外へと追い出された。そのまま、兄の紺色の背広にぴったりくっついて、流されるように改札の外へと出てしまった。

「お兄ちゃん、ちょっと待ってよ!何考えてるの?会社、遅刻しちゃうじゃないの」

 今度は私が兄の腕を引っ張って、強引に、人波から逃れて隅のほうへ連れて行って聞いた。兄は、それが一番の長所と言えるであろう、おおらかで人の良さそうな笑みを浮かべると、

「たまには、いいだろう?大丈夫だよ、少しぐらい」

 と言う。私は呆れて、

「何勝手なこと言ってるのよ。私、今日はやらなきゃいけないこと、たくさんあるんだから」

 くるりと踵を返すと、改札へと向かおうとした。その腕を、また兄がつかむ。

「まあまあ。お前は昔から、そういうとこ変わってないなあ。本当に、堅いというか…」

 言いながら、携帯電話を出すと、私の部署の電話番号を聞いてくる。どうするつもりかと思いながら答えると、兄はピピピッと電話をかけ、

「あ、雅美の兄ですけど…。ええ、いつも妹が、お世話になっております。実は、朝から熱が下がりませんで…、ハイ、ちょっと様子を見てから…ええ、よろしくお願いします」

 ぺろりと舌を出して、電話を切った。

「…信じられない。今日の仕事は、どうするのよ」

 呆然として言うと、兄は、私にはい、と携帯電話を手渡してきた。

「俺の部署にかけたから、お前も今みたいに言ってくれよな」

 え?と、その黒い携帯電話を受け取った瞬間、『もしもし』、という声がかすかに聞こえてきた。慌てて私は耳に当てると、兄と全く同じことを言わざるを得なかった。

 


 ザーン、ザザーン、と耳慣れた音が大きくなるにつれて、風に潮の香りが混ざって、鼻に届いた。

 駅前を、人気のないほうへと歩いて行くと、五分もたたないうちにまわりの空気が海の香りでいっぱいになった。やがて、住宅街のような一角を抜けると、突然目の前に、白い波しぶきをあげた、どこまでも続く海が現れた。

「ほんとうに、海があったよ。驚いたな」

 脱いだ背広を、頭の上で振りまわしながら、気持ち良さそうに伸びをして、兄は言った。

 海の周りは綺麗に整備されていて、朝の散歩だろうか、犬を連れた男性や、学生たちの姿もちらほらと見える。

「お兄ちゃんてさ、あんなこと、する人だったっけ?」

 ため息をつきながら言うと、兄は振りかえり、笑顔を見せた。

「北海道の事業所ってさ、すごくのんびりしたところでさ。こっちみたく、言い争うこととかあんまりなくて、カリカリしてるってこともないんだ。あれはきっと、上手いんだろうな。息抜きの仕方が」

 海岸線に沿って続く遊歩道を、並んで歩きながら、久しぶりに目にした雄大なその風景を眺めていると、いつも座っているデスクや、遣り残した仕事のことが、さらさらと頭の中から消えていった。

 海はどこまでも青く続いていて、遠くにはカラフルなヨットの帆や、サーフィンをしている人の水着姿が、朝陽を浴びてまぶしく反射させる波間から、ちらちらと見える。

「ねえ、あれ見て。サーフィンできるのね、ここ」

「本当だなあ。でも、あまり波が立ってないから、つまらなそうだけど」

 遊歩道の途中に、階段があった。下の砂浜に降り立つと、さらりとして乾いた砂の感触が、靴を通して伝わってきた。

 砂浜のあちこちにはゴミや海藻が、波に寄せられひとかたまりになって、こんもりと積まれている。それは、あまり綺麗とは言えない風景だったけれど、海に沿ってゆるいカーブを描きながら広がる白い浜は、幼い頃の海を思い出させた。

 空はよく晴れ渡り、5月の太陽の日差しも暑く感じた。そのほてった肌を冷ますように、涼やかな風が私の髪を流して、吹きすぎる。

 ふいにその風に、ガタンゴトン、という聞き覚えのある音が混じった。

「雅美、分かったぞ。ほら、あそこが例の場所だよ」

 同時に、兄が道路側を振り仰いで、言う。その視線の先には、海沿いにずらりと並んだ家やマンションがあり、その一角に 、わずかにぽっかりと空いた家1軒分の隙間から、走り去る青い電車の姿が見えていた。

 視線を隣にずらすと、確かに目印にしていた赤い屋根の家がある。

 毎朝乗っている、見覚えのある電車は、ゴトゴトと音を立てて過ぎ去った。

 私たちは道路に戻り、そこだけぽっかりと空いている、妙な場所へと行ってみた。

 海沿いの道路には、建ち並ぶ家々に混じって、場所柄なのかサーフィンのショップや、レストランなどの、可愛らしく洒落た建物も多かった。

「ここか…。なるほどね。ここからしか見えないわけだな。他はびっしりと家が並んでるんだもんな」

 左右の家に挟まれて、そこだけは、ただの空き地になってしまっている場所を眺めながら、兄が言った。空き地のすぐ先には、線路が見える。なんてことはない、ここが、一瞬だけ海の見える場所だったのだ。

 空き地には、立て看板がしてあって、『建設予定地』などと書かれていた。

「あのう…何か、ご用ですか?」

 他人の土地を、じろじろと無遠慮に眺めている私たちの背中に、声がかけられた。はっとして振り返ると、人のよさそうな初老の男性が見ている。

「あ、いえ、ちょっと。ここの土地の持ち主さんですか?」

 たどたどしく私が聞くと、男性は頷く。私たちはその優しそうな雰囲気に誘われて、自然とここまでの経緯を彼に話した。

「ほう…なるほどねえ。面白いですね。そう言われてみれば、ここら辺はずっと線路沿いに建物があるから、海の風景を阻んでいたんですねえ」

 目を細めて、左右に並ぶカラフルで可愛い家々を眺めて言った。

「あの、ここはもともと、普通の民家が建てられていたのですか?」

 海からの風にたなびく髪の毛を抑えながら私が聞くと、男性は首を振った。

「いえいえ。ここは、店だったんですよ、私の。もう20年近くやっていた食堂で。でも大分古くなったし、ごらんの通り、周りはすっかり小綺麗な…若者に人気のあるようなお店ばかりで。全然お客も入らないから、店畳んでしまおうって思っていたのです。料理学校に通っていた、後継ぎの息子も、数年前に家を出て行ったきりですしね」

 遠くで鳴る潮騒の音が、ふと、電車の振動音にかき消された。青色の車体を揺らして、電車はゆっくりと通り過ぎて行った。しばらくして、また波しぶきの音が耳に届き始めたころ、男性はぽつりぽつりと、話はじめた。

「でもね先日、帰ってくるって連絡があって。息子はね、なんでもフランスだかイタリアだかのレストランで修行を積んだらしく、ここに店開くって言うんですよね。まあ、数年前のことは若いときの気まぐれだったんでしょうかね。」

 だから、店も建て直すことにしたのだと、嬉しそうに言って、笑った。私はその細い目に深く刻まれた皺を見ながら『若いときの気まぐれ』という男性の言葉を、繰り返し胸の内でつぶやいていた。

「それじゃあ、また、ここにはお店が建つんですか?」

 兄が言うと、彼は手を目の上に掲げてひさしにしながら、遠くの海を眺め、

「そうだねえ。また、電車からは海が見えなくなっちゃうかな」

 と言って、まぶしそうな顔で、輝く波間を見ながら笑った。

 男性にお礼を言って、私たちは元来た道を戻り、再び砂場に降り立った。

「謎も解けてみればたいしたことないな」

 兄はそう言うと、そこだけぽっかりと空いた空間を振り仰いだ。ザーン、と音を響かせて波は砕け散る。こうして海の近くに立っていると、その波の押し寄せる衝撃までもが響いてくるようだった。

「お店が出来るの、八月だって言ってたね。どんなお店なんだろうね」

「ああ、その頃また、来てみようか」

 太陽は大分高くなり、日に日に濃くなっていく青い空のまんなかで、光り輝いている。その光を反射させて、海は遠くから次々とやってくる波をガラスの破片のように砕け散らせる。

 それらを眺める兄の表情はどこか遠く、北海道にいるという彼女のことを想ってるのじゃないかな、と何の根拠もなく、ふと思った。

『若いときの気まぐれ』に結婚が含まれることもあるのだろうか。あるかもしれない。でも、この兄にはもうそれはないだろう。明らかに変わってしまった兄の、しぐさや考え方は、『気まぐれ』なんて言葉から出てくるものではないと思えた。

「あのさあ、お前、昔父さんが話してくれた映画のこと、覚えてる?」

「え?」

 驚いて振り返ると、兄は両手を海の方へ差し出して、ぱーっとそれを左右に開いた。

「海がさ、割れるってやつだよ。こうやって、まっぷたつに。覚えてない?」

「うん。覚えてる。『十戒』でしょ?」

 幼い頃の兄の、好奇心にあふれる瞳を思い出して、おかしくなりながら言うと、今度は兄が、えっと声をあげて私に向き直った。

「なんだよ、おまえ、知ってたのか。あの話が『十戒』って映画だってこと」

「だって、すごく有名な映画でしょ?高校生のとき、哲学の授業で観たし」

「…そうなのか?そんな、有名だったんだ、やっぱり」

 言って兄は、肩をがっくりと落とした。そのすねた表情がおかしくて、笑ってしまった。

「何よ、もしかしてお兄ちゃん、知らなかったの?」

「うん。つい最近、その割れる海の話を得意げにしたら、教えてもらってさ。…なんだよ、知ってたなら、早く教えてくれよな」

 恥かいちゃったよ、とふてくされたように言い、声をあげて笑った。

「あはは。でも、誰にそんな話したの?」

 すると、兄は照れくさそうな顔になり、女性の名前をあげた。それは、兄の婚約者になる人の名前と一緒だった。

「彼女にも、呆れられたよ。有名な映画よ、ってさ」

 そう言って笑顔を向けたとき、ふいに大きな音がして、白いしぶきが私たちの足元で砕け散った。

「きゃぁ!」

「わあ!」

 突然の大波は油断していたふたりの足先をびっしょりと濡らして、知らん顔で海へと逃げていってしまう。私たちは急な足の冷たさに驚いて、大声を上げてしまった。

「あーあ…もう、どうするのよー、これ。靴の中までびしょびしょだぁ」

「俺なんて、ズボンの裾がこんなに…。これ、高かったのになぁ」

 あわてて道路沿いの浜まで戻りながら、顔を合わせて、くくく、と笑った。その笑い声は次第に大きくなり、ふたりして壁にもたれて、けらけらと笑った。

 人気のない浜辺で、青空に吸い込まれるように私たちの笑い声は響いている。そうしていると、ふいに子供の頃のあの海辺にいるような、そんな錯覚がした。

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?」

「結婚、おめでとうね」

 空に顔を向けていた兄は、私の言葉で、こちらを見た。

「ありがとう」

 子供の頃と少しも変わらぬ笑顔で言った兄の目には、青い空と輝く波しぶきが揺れて映っていた。

 

 

おわり


 



comment


港のある町で生まれて、港のすぐわきの丘の上の中学校に通い、
海水浴場のある場所で高校生活を送っていました。
今住んでるところも海が有名な場所なのに、
海よりずっと山が好きだった私。
でも、頭の中を探ってみると、
ぽろぽろと海の風景が落ちてきました。

そんな海の風景と、
何でもない毎日の中に転がってる、物語らしいこと
それが書いてみたくて、この作品ができました。

 

 

Story & comment by みえ

 


きら★メニューページへ

「旅色の空」トップページへ