連載小説「旅色の空」最終回

旅色の手紙

作・み え

***前回までのあらすじ***

恋人と親友が一緒に現れた次の日から、「私」はひとり旅に出た。
行く先々で出会う人々や、その地に伝わる伝説の不思議な体験に触れるうち、少しずつ失恋の傷は癒されてゆく。
あるとき、旅の途中で出会った『派手な緑のリュック』の男性と、その後も偶然のすれ違いが続く。
いつの間にか心深く残った彼と、もう一度会いたいと思いながら、「私」は彼の姿を追って旅を続けていた。

もうちょっとくわしいあらすじはこちらから。


 かすかに耳に届いていたせせらぎの音がぐんと近くなった。足場の悪い道を気をつけて、音のするほうへと辿って木の向こうを覗きこむと、未だ残る雪のせり出した川岸の合間に細く透明な水の流れが見えた。
 ついに、足元に続いていたけもの道のような細い道も、その川で塞がれてしまった。私は思わずがっくりと近くの岩の上に腰を下ろした。

「あーあ、この道もはずれだったかぁ」

 空を仰ぐと、寒そうな枯れ枝をあちこちに伸ばした木々の間から、どんよりとした雲が見える。三月も半ばを過ぎたというのに、まるで真冬のような冷たい空気が首筋やコートの袖口から入り込んできて、私の体をひしひしと冷やす。

 伝説の梅の木がある丘を探して、今日でもう4日目だ。深い山に囲まれたこの土地で、何人ものひとを訪ねてはその情報に振り回されて、結局少しも近付けない。
 疲れたため息をつくと、私はリュックを肩にかけて立ち上がった。その頬に、ぴたりと冷たい雫が落ちる。

「やだあ、雨じゃない…」

 うんざりした気持ちで空を見上げると、急ぎ足になって私は来た道を引き返そうとした。
 かさこそと木々を鳴らしていた雨の音は、瞬く間に森中に広がる。ざあざあと鳴く森は、まだお昼を過ぎたばかりなのに、まるで夕暮れのように薄暗くなった。
 傘を持ってこなかったことを後悔しながら、足元の泥をはねさせて山を下った。この山のふもとに、私が泊まっている宿はあるけれど、そこへ辿りつく前にずぶ濡れになってしまいそうだ。
 そのとき、強い雨粒に細めていた私の目に、暗い木々の間に埋もれるように建つ物置のような小屋が飛び込んできた。急いで駆け寄ると、その軒先に滑り込む。

 冷たい雨粒に容赦なく打ちのめされた体は、すっかり冷えきってしまった。毛先から雨のしたたる髪を拭くため、私はリュックから小さなタオルを取り出した。
 風も強くなってきたのか、遠い山のほうからは、低く不気味な唸り声が聞こえてくる。森に響く雨の音って、なんて大きいんだろう。トタン屋根の軒先を叩く雨の音も騒がしい。私はなんだか心細くなり、同時に朝から歩き通しだった足の疲れも一気に出たのか、思わずその場にしゃがみ込んだ。

 そうやって、ざあざあと森を揺らす雨をぼんやり眺めていると、ふいに、昨夜遅くの宿での電話のやりとりが、まざまざと頭によみがえった。

「おねえちゃん、まだ帰ってこないの?」

 電話の相手は妹で、旅の途中で時折入れている近況報告をしているところだった。

「うん。あと少し……かな」
「結婚資金なんて、もう使っちゃったんじゃないの?」
「だからあと少しよ。結婚資金を全部使い切ったら帰るってば」
 10ヶ月におよぶ長旅で何度も繰り返したやりとりを、うんざりした気持ちで返すと、

「分かったよ……でも、それならせめて、手紙書いたら?」
「手紙?誰に?」

 妹は少し迷ったように黙り込んだあと、かつての私の親友の名前を口にした。
 この旅の最初の頃、途中で辞表を送ってしまったあの会社で、一番最初に仲良くなって何をするにも一緒だった気の合う親友。でもあの6月の雨の夜、私の恋人と現れた親友。
 最後に見たのは泣きはらした目をした彼女だ。その姿を思い出し、私が黙り込んだままでいると、妹は遠慮がちに話し出した。

「……この間さ、おねえちゃんの会社の、その……別の友達のひとが来てさ、あのふたりうまくいってないみたいだって。ちっとも帰ってこないおねえちゃんのことを気にしていて、ふたりとも会ってないし別れちゃいそうだって言ってたから。おねえちゃん、もう許してあげてるんでしょ?だから、ふたりにそういう手紙を書いてあげたら?」

 妹の言葉は、深夜誰もいなくなって静まり返った民宿のロビーで、必要以上の大きさになって私の耳に届いた。

 あの夜、思いもかけず私の身に訪れた衝撃は、確かにもう薄れてきてはいる。思い出すたび涙が出たかつての恋人の顔も、今では心の奥の微かなきしみ程度で頭に浮かべることができる。何でも話していた親友の笑顔さえ、懐かしいと思えるようになった。
 一度に失ってしまった大切なひとたち。そのふたりが私のせいでうまくいってないのだとしたら、私は今の自分の気持ちを、やはり伝えるべきなんだろうか。

 昨夜からずっと私の中で重い影を落としていたその考えに、どれだけひたっていたのだろうか。ふと気づくと、雨はいつの間にか小降りになって、庇の向こうの空では、灰色の雲がすごい勢いで通り過ぎて行く。
 強い風が、木々の間を縫うように吹いてきて、私の頬にひとしずく雨粒をぶつけた。


 この地に伝わる梅の木の伝説は、一ヶ月ぐらい前に立ち寄った民宿で耳にした。

 伝説の梅の木……。それは、この山深い小さな町に伝わる幻想的な話だ。深い森を進んでゆくと、ふいに木々が途切れて広い丘に出る。丘の真ん中にはぽつんと梅の木が一本だけ生えていて、その梅の木が満開の季節、花のほころぶ枝に手紙を挿しておくと、梅の香りと共に風がその手紙を運んでくれる……。

「手紙を運んでくれる、梅の木かぁ」
 夕食を終えて民宿の部屋に敷かれた布団に寝転び、私はぼんやりと奇妙な模様を描く木の天井を見上げながらつぶやく。

 もう4日もその梅の木を探して歩いたけれど、深い森の行く手にそんな丘は見つからなかった。この町へ来て、周辺の住民に何度聞いても、誰も見たことがないと言う梅の木。「だから伝説なんだよ」と、この宿のおじいさんも言っていた。

「本当にあるのかなぁ」

 小さくつぶやいて起き上がると、窓の外をぼんやりと見つめる。しとしとと降る雨が、暗闇の中で光って見えた。

『おねえちゃん、もう許してるんでしょ?手紙、書いてあげたら』
 また昨夜の妹の言葉が思い浮かんだ。『あのふたり、別れちゃうかもしれないってさ』

 妹の言うとおり、もうとっくに気持ちはなだらかだ。

 こんな風に思えるようになったのは、いつからだろう。
 この旅をはじめたころ……あの暑い真夏の日、夏みかんの木の下で不思議な青年と出会ったときは、確かに苦くてどろどろした、暗い色の気持ちばかりが心を覆っていた。
 でもあちこちの地を訪れて、そこで出会った不思議な伝説やあたたかい人々の姿に触れ、夢中になって季節を通りすぎて行くうちに、いつのまにか私の気持ちはゆるやかに、元の形へと戻っていったのだ。
 そんな今の私にとって、手紙を書くことはできないことじゃない。でも、本当にそれでいいのかな。

 ごろんと横になると、手を伸ばしてリュックのポケットから、赤い懐中電灯を取り出した。手に取っただけで、あの無数の蝉の声が響く森にたちまち舞い戻り、この懐中電灯を貸してくれた、派手な緑のリュックの男性の姿が思い浮かんで胸が熱くなる。
 もう一度会いたくて、行く先々で彼の姿を追っているうち、いつの間にかこの旅の目的みたいになってしまった、あの背が高くて色の黒い男性。
 彼のように私も伝説を辿っていれば、いつかもう一度会えると信じてここまで来たけれど、どうやらまだここに彼は来ていないらしい。
 
 あれから何かあるたびに、まるでお守りのようにこの懐中電灯に祈りをこめていた。
 私は、いつものように懐中電灯を胸にだきしめ、目をつぶった。すると、脳裏に今まで目にした数々の風景が浮かんだ。夏みかんの木、霧の喫茶店、青い不思議な雪の風景……。
 いつかこのたくさんの思い出のなかに、今のこの瞬間も残るのだろうか。手紙を届けてくれるという、梅の伝説と共に。

 ふいに私はがばりと身を起こし、部屋の隅にある小さな文机に向かうと、旅の途中で手に入れた色鮮やかなレターセットを取り出した。
 色とりどりの便箋に、次々と私は言葉を綴ってゆく。オレンジ色の封筒に夏みかんの彼への手紙を、青い便箋に喫茶店のご夫婦への思いを綴り、白い便箋に青い文字であの美しい青い雪の風景を描く。
 頭を流れる数々の風景たちの向こうに、たくさんの笑顔とやさしさが見えた。

 私は夜が更けても時間を忘れて、ただひたすらに自分の思いを、歩いてきた風景を、その道を綴った。
 ピンク色の便箋に、ガーベラの好きな親友へ宛てた手紙を綴ったあと、最後に美しい空色の便箋を取り出すと、今一番会いたいひとへ、一番伝えたい気持ちをそっと緑の文字で記した。

 窓の外の柔らかい雨が降り止んで、空がうっすらと白みはじめたころ、枕元にカラフルな封筒をたくさん積み上げて、私はこの旅で一番深い眠りに落ちていった。



 明け方まで手紙を書いていたせいか、翌朝はなかなか起きられなかった。
 ほとんどお昼に近い、遅い朝食をいただいて身支度を済ませると、昨夜書いた手紙の束をリュックにしまい込み、再び梅の木を目指すため、私は玄関へ向かう。
 下駄箱から自分のスニーカーを出していると、そこへばたばたと男性が駆けこんで来た。

「おおい、ナベさん、ちょっと!」

 大きなしわがれた声でわめきながら現れた中年の男性は、私と目があって小さく頭を下げた。確かこの人は、すぐ近くの『ますだや』という民宿を営んでいる人だ。そこへ、表にいたらしいこの宿のご主人が、男性の後ろから姿を見せた。

「おお、マスダさん。どうした、なにかあったのかい?」
「いや、悪い。実は、昨晩から帰らないお客さんがいてさ」

 その言葉にご主人は眉をひそめた。

「お客さんが?まさか、逃げたなんてこと……」
「いや。それが宿代は先払いで、三日分もらってるんだよ。おかしな話だろう?」

 玄関で立ち話をはじめたふたりの間で、スニーカーを片手に私はなんとなく動けなくなってしまった。

「そりゃ困ったなあ。警察にでも届けるか?」
「うーん、どうしたもんかなぁ……。ま、もうちょっと待ってみっか」

 マスダさんは大分禿げ上がった頭をぼりぼりかいて、ふと気づいたようにこちらを振り返った。

「そうそう。お姉さんも、もしなんだかこう、派手で目立つ、大きな緑色のリュックを背負ったあんちゃんを見かけたら、教えてくれないかな」
「え?」
 今、なんて言った?

「昨日の夕方ぶらっと来て、で、どこかへ出かけたっきりだよ。困っちゃったなぁ。じゃ、よろしく」
「ちょ、ちょっと、待ってください!」
 せかせかと立ち去ろうしたマスダさんに、思わず私は必死になって声をかけてしまった。

「うん?」
「そのひとって、こう、色黒で背は高くて……」
「そうそう。お客さん、知ってるの?」

 不思議そうな表情でマスダさんは聞く。私の頭には、追いつづけてきた派手な緑のリュックを背負った彼の姿がくっきりと浮かび上がった。

「そのひと、なぜこの町に来たのか、聞きました?」
「ああ。なんでも、伝説の梅がどうとか……」

 マスダさんの話を聞き終わらないうちに、私は手に持ったままだったスニーカーを玄関に投げるように置くと、外に飛び出した。
 彼が、ここにいる。やっぱり同じように伝説を求めて。

 通りに出て、きょろきょろとあたりを見渡した。昼間とはいえ、今日は平日なので人影はあまりない。風はまだ冷たいけれど、陽だまりに溶けこむようにおだやかだ。
 どっちへ行けばいい?

 そのとき通りの真ん中に佇む私の脇を、ふわりと風が通りすぎて行った。それはとても柔らかい風で、なぜか梅の香りを含んでいる気がした。同時に私の頭にどこかの細い山道が浮かぶ。見覚えのある、あの深い森の中の道……。あれは伝説の梅の木を探して、一番最初に辿ったルートだ。
 何か説明のつかない想いに動かされて、私の足はその道へ向かう。通りをぬけハイキングコースの階段を上り、途中、コースから外れる細い山道を行く。
 かさこそと足元で音を立てる枯葉の下には、昨日の雨でぬかるんだ泥道が続く。細い道にせまるように枝を伸ばす木々たちの間を、スニーカーが汚れるのも構わず黙々と進む。

 大きな木の立ちふさがる林を目前に、私の足は止まった。道はここで途切れて、この先はどうにも行けそうもないと、以前来たときは諦めたのだった。
 どうしよう?

 日が遮られた薄暗い林に佇んで、その先をじっと見つめ私は考える。そのとき、目の前に迫る茶色い木肌に、ぽつりと小さな緑色の芽を見つけた。
 誘われるように近寄って背伸びして枝に目を寄せると、小さいながらも淡い緑色の葉が芽吹いていた。

「わあ、すごい。まだまだ冬だと思ってたのに……」

 林の足元には、まだあちこちにちらほらと雪が残っている。冷たい空気の漂う森の、色味の薄いその中で、緑の芽はひときわ目立っていた。
 ふいに、その柔らかい地面に残った足跡が目に入った。私より大きい、スニーカーか何かの足跡。
 それが足跡だと分かった瞬間、私の体は木々の間を駆けた。
 ひどい泥道だ。それでも、両側に並ぶ木々で体を支えながら夢中になって進むと、突然、目の前がぽっかりとひらけた。

 驚き、思わず立ちすくむ。あんな深い森を突き進んできて、まさかこんな場所があるとは思わなかった。
 きっと夏には青々とした緑で埋め尽されるであろう草原は、今は冬色に枯れていて、遠くには美しい山並みが青い空を背景に広がっている。
 ほんの100メートル四方ほどの草原の丘は、周りをぐるりと森に囲まれて、3月の陽射しをいっぱいに浴びていた。

 そしてその草原の真ん中に、ぽつんと一本だけ、全身を白い花びらで染めた梅の木がすうっと立っていた。
 風がそよそよと丘に流れ、太陽をきらきら反射させて白梅が揺れる。たった一本なのに、芳しく漂うその香りに誘われるようにして、私はふらふらと近付いていった。
 まだ枯色の風景の中、一本だけ咲き乱れる白梅の前に立つ。

「これが伝説の梅の木……?」

 ひとりつぶやいて、私は陽射しをたっぷり浴びて輝く白梅の姿に、じっと見惚れた。

『その梅の木の枝に手紙を挿しておくと、梅の香りと共に風がその手紙を運んでくれる』
 地元の人から聞いた話を思い出す。深い森を抜け出た先の丘の上で、ぽつりと一本だけ立つ梅の木。青空と、遠い山並みを背後に従えて、その白梅の堂々とした風情はとても神秘的だった。

 私はコートのポケットから、昨夜書いた色とりどりの封筒を取り出すと、白い可憐な花を散らさないように気をつけて、枝のあちこちにそうっと挿した。

 空色の手紙を挿したあと、少し迷ってから、鮮やかなピンクガーベラ色の封筒を枝に挿す。これでいい。目に見える手紙を届けなくても、私の想いはきっと彼女にも、以前恋人だった彼の元へも届くはずだ。
 この長い旅のきっかけとなったあの雨の夜、私がいなくなることぐらいで揺らぐような恋だったら、二人は私のもとへ現れたりしない。

 私は白い花びらの間に、不安定に揺れるピンクの封筒をじっと見つめた。

 辛かったからこそ、二人の本当の気持ちを、今はやっと目を離さずに見つめることができる。認めることができる。きっと二人は、大丈夫。
 梅の木からゆっくり離れて見上げてみると、白一色だったその枝には、青や緑やピンクの封筒が彩りを添えていて、急ににぎやかになったみたいだ。

「まるで、七夕ね」
 つぶやいて思わずくすりと笑ってしまう。それから、白梅の下に歩みよって目を閉じると、私はこのたくさんの手紙を宛てたひとたちへ、一番伝えたい想いを小さくつぶやいた。「ありがとう」

 さわさわと丘を撫でていた風が、ふいにざわりと強く巻き上がり、周りを囲む森が騒がしく波立った。

 そしてその瞬間は、何の前触れもなく訪れた。

「あれ?」

 思いもかけぬ声が背後からかけられ、顔を上げて振り返ると、そこには背の高い、見覚えのある色黒の男性が立っていた。

「あれ、君は確か……、赤い懐中電灯を貸してあげた……」

 驚いて、私は目を見開くだけだった。あの頃のTシャツ姿とは違って、黒いジャンパーを着込んでいたせいか、男性はとても大人びて見えた。

「そうだよね?蝉がたくさんいる森で、会った子だよね?」

 けれどもあの頃と変わらない、強い光を放つ黒い目をくるくると動かして、彼はひとなつこそうな笑顔で言った。ああ、これが、数ヶ月も追い求めていた笑顔。
 私は胸がしびれるほど熱くなるのを感じながら、夢中になって頭を縦に振った。

「もしかして、また君もこの梅の伝説を聞いて来たの?」
「え?……ええ、そうです。あなたも?」
「うん。この梅を目当てにして昨日の夕方ここのふもとの町に着いてさ。で、早速あちこち周っていたら、偶然この場所を見つけちゃったんだ」

 言いながら、彼は大きな派手な緑のリュックを肩からどさりと地面に置いた。ずっと目印にして探し続けたこのリュックにまでも、私は熱い想いがあふれて来る。

「でももう暗くなってきたから、また明日来ようと思ってさ。で、山を下りようとしたら、懐中電灯の電池が切れたことに気付いたんだ」
 ジーンズのポケットから緑色の懐中電灯を出して、彼は笑う。

「真っ暗で、どうしようもないから、その梅の木の下でテント張って、夜明かししたんだ」
「そうだったんですか」
『ますだや』さんの言っていたお客さんとは、やはり彼のことだったのだ。

「寒かったよ、雨も降ってるしさ。で、やっと晴れたから今、あちこち探検してた」
 いたずらっぽい笑顔で言うと、彼はふと私の背後を仰いだ。

「その梅の木の伝説、試した?」
「ええ、さっき……」

 言いながら私は梅の木を振り返り、その優雅な白い姿を見て愕然とした。

 ついさっき枝に挿した色とりどりの封筒が、ない。

「あ、あれ?」

 思わず梅の木をぐるりと一周して、辺りをきょろきょろ見回してしまう。けれどもあんなにたくさんあった封筒は、もう一通も見当たらなかった。

「枝に挿したのに……」
「さっき俺が来たときにはもう、見当たらなかったけど」

 梅の木の下で、目をつぶって祈ったほんの数秒の間に、強い風によって私の手紙は吹き飛ばされたのか。それとも伝説通り、私の想いは梅の香りと共に風に乗って届いたのだろうか。

「梅の香りと共に風がその手紙を運んでくれる……、か」
「きっともう届いているよ。だって俺も実証済みだし」
「え?」

「昨日の夜さ、懐中電灯が切れて、それで君のこと思い出してさ。ああ、あの赤い懐中電灯を貸してあげた子が、持ってきてくれるといいなぁって。で、君への手紙をそこの木に挿して寝た。そしたら、ほら、来た」

 梅の香りを含んだ柔らかい風が頬を撫でた。旅をはじめたばかりの時に切った髪の毛は、いつの間にか胸まで届き、風に乗って、さらさらとなびく。

 ずっと追い求めていた、もう一度見たかったその笑顔の向こうで、どこまでも、どの場所へも続く青い空が広がっていた。

 私の送ったたくさんの想いは、同じこの空の下で、どこかにいる彼らに届いただろうか。きっと、この空をたどればどこへでも行ける。ほのかに漂う梅の香りに乗って。

 彼に宛てた空色の手紙も、もう、彼に届いたはず。

 私は、あたり一面に広がる、さわやかな梅の匂いのする空色の空気を思い切り吸い込むと、ずっと伝えたかった気持ち、話したかったこと、聞きたかったことをどれから口にしようかと、迷いながら笑顔で彼の元へ一歩進んだ。

 頭上には、今にもこぼれ落ちそうな、春のにおいと、青い空。

             <旅色の空・おわり>




comment


はじめてクプカに小説「夏みかんの木の下で」を
掲載していただいたのは、ちょうど4年前の6月でした。
今回、4年もかかってやっと、 この主人公の物語を終わらせてあげることができました。

今回のお話を書くにあたり、最初からすべて読み直しましたが、
今読むと書き直したいようなハズカシイ個所も山ほどあって、
4年の間に少しは成長できたのかな、と思っています。

これからも、もっともっとたくさんの小説を書くために、
ひとつの物語を終えることができて、
今は心からほっとしています。

今まで読んでくださった方、今まで感想をたくさんくださった方、
本当に本当に、ありがとうございました。

Story & comment by みえ



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